久しぶりの思い切った買い物

daily-komagome2008-01-10

 朝の内に、2008年正月DVDの最後に残った『さくらん』(蜷川実花監督/2007年・アスミックエース/111min)を“こなす”。まさに、ただ二時間を“こなす”という言い方がピッタリ。江戸吉原の遊郭話が聞いて呆れるぜ。とても大人が観られる代物じゃない。「時代物」を作る際に要する最低限の緊張感(=その時代への謙譲)さえなく、故に作者の傲慢な自己主張=解釈に埋め尽くされ饒舌となった画面が、ただただ騒がしく目障りなだけ。別に今更、時代考証の厳密さ云々と野暮なことは言わないし、川島雄三の『幕末太陽伝』を見習えとも言わない。その映画の“構造内リアリティ”で構わない。が、その純粋な“テクスト内在的リアリティ”自体が、実はその“外”に拡がる、不純で偶然的で不透明な“時代の肉体性=我々の記憶”に拠らねば何一つ成立しない事の意味をもう少し冷静に考えるべきだろう。だいたい、蜷川実花などという、物欲しげなビジュアル本意の写真家風情に、散文性を強いる「人間劇」が描ける訳がなかろうに・・・・。「劇映画」に限って言えば、「映像派」とかいう肩書こそ限りなく胡散臭い。
 昼に久しぶりに大学へ。最後の在学延長届けを出し、指導教授にもう論文を書き出してもいいのではないかと言われる。論文提出の条件である審査論文は1.5本には達しているから、無理矢理ねじ込むとのこと。いよいよ忙しくなる予感。
 そして、帰路、大学近くの古本屋でついに出会ってしまった・・・。あの本に・・・。

 メチャクチャ高いが、ここは涙を呑んで購入を決定。確かに、帰宅してからネット検索して底値で買うのも一つだろうが、「一期一会、出会ったときに買っておけ!」を古本信条にしている自分としては、ここで踏み出す方に賭けてみた。そして、やりました!帰宅後の調べでは「日本の古本屋」の底値が4000円で、Amazonの中古本価格が5145円〜11965円。ほっと胸をなで下ろす。
 しかし、それ以上にブルクハルトの代表作が手に入ったことの方が数倍嬉しい。本書は、「超人」をして限界を知ることのなかったニーチェが、しかし唯一その生涯を通じて片思いの念(=崇敬の念)を抱きながらも嫉妬し続け、またカール・レーヴィットが、その姿勢を指差して「堪え忍び行動する人間」と呼び、19世紀以降の「保守思想」を力説した、あのブルクハルトの処女作でもある。手前勝手な妄想では、ニーチェウェーバー、ヴァールブルク、ベンヤミンなどのドイツ語圏における「近代批判」の支流の全てが、実はブルクハルトという大河から流れてきているを気がしているのだが・・・。それを確かめる上でも、古代異教世界(多神教)からキリスト教中世(一神教)への「過渡期」を扱っている本書はもってこいだろう。
 その後、そのまま仕事へ。11時まで残勉に付き合い、帰宅。

新年の大収穫

daily-komagome2008-01-06

 朝のうちに『叫』黒沢清監督/2007年/104min)を鑑賞。日本版ホラーの佳作。黒沢清にしては、斜に構えることなく正面から撮った方だろう。神(=第三人称的垂直軸)を媒介に出来ない他者関係は、必然として二人称的関係(=水平的ズルズルベッタリ)へと閉塞し、故に、現実から疎外されながら、しかし神においても救われない精神は、この世に怨霊として留まらざるを得ないといった日本的ホラーの説話法は、今もって有効なんだとつくづく感じた。逆に、この日本的ホラーが、世界的に“売れる”という現象が、「西洋の日本化(=垂直軸の水平化→他者志向による自意識過剰→ルサンチマンの連鎖)」というコジェーブの「ポスト歴史=ポストモダン」定義のリアリティと相俟って、空恐ろしくなる。 
 その後、12時過ぎに年始の古本市として池袋往来座の“外市”に自転車で直行。しかし、さすがに仕事までの時間が押しており、外棚を見られたのは30分程度。それでも良い本を見つけることが出来た。

 織田作と、大川編の短編集二冊以外全ては絶版文庫。しかも既に福武文庫に到っては文庫自体がないというのに それでも全部でたったの2700円!と言うことはハードカバーも含めて全て300円均一で買ったことになる。なんて安くて粒ぞろいなんだ“外市”!
 その後、直帰して仕事へ。
 ちなみに、通勤に携帯した『中条章平は二度死ぬ!』には、あの当時三十七歳の松本俊夫をして「心強い同盟者」と言わしめ、また、当時筑波大付属高校一年だった四方田犬彦が「これはかなわんな、食い物が違うんじゃないか」「天才というのはいるんだなと思った」と回想する麻布中学三年十五歳当時の中条章平による「『薔薇の葬列』論−現代状況への批判の刃」(『季刊フィルム』1969)が再録されている。ウチの師匠が、よく草月ホール(アートシアターか、蠍座だった気もする・・・)で、自分の隣でフランスパンをかじりながら映画を観ていたと証言するあの十五歳の中条章平少年の文章だ。確かに、今読むと、読んでるこっちが恥ずかしさで赤面するような背伸びした文章だが、中年を過ぎてそれなりに過去を整理した中条が「逆に隠し続けるのも大人げない」と観念したんだろう。実際、その後の中条の自己喪失・漂流と、そこからの再生を知っていればこそ、味わい深くなる「若書き」の典型だ。その意味では、ついこの前文庫化されたばかりの『クリント・イーストウッドアメリカ映画史を再生する男』(ちくま文庫)を横に置き、その落ち着いた文体をも味わうことで、一人の人間の痛々しい成熟の跡を確認するのもまた乙だろう。
 帰宅後、今日の収穫を吟味していたら、小山清(『短篇礼讃』所収)、吉田健一野口冨士男、森敦、織田作などが、太宰治保田與重郎福田恒存などとほぼ同世代(1911年〜1913年生まれ)であることに気が付く。実は、ここから興味深い線が引けるのだが・・・・今日は、もう時間がない。

最後の休日

daily-komagome2008-01-05

 起床後、珈琲を啜りながら読書。頃合いをみて『ブラッド・ダイアモンド』(エドワード・ズウィック監督/2007年・ワーナー/143min)を鑑賞。映画的演出として安易じゃないかと思わせる部分はあるものの、あの愚作『ラスト・サムライ』の監督にしては情報過多になってしまいがちで難解と言われてしまう経済利権ネタ(=ダイヤモンド市場)を上手く国際政治(市場の代理戦争=アフリカ内戦)と絡めて分かり易く処理している。バランスのとれた仕上がりで、義憤を誘う以上に情報として学ぶことが多かった。
 映画を観て後、今日で最期の休日を思い、昼間から“亀の湯”で体をほぐす。湯を上がってからは、浸かりすぎですっかりふやけてしまった体を冷まし、ついでに髪も乾かそうと駅前の平和堂まで散歩。人気絶版本にもかかわらず二冊で500円!

 平和堂を出てからは、商店街でメンチカツを一枚買って帰路に就き、それをおかずに軽い食事。その後また読書に戻るも、しかし、いい具合に湯冷めして落ち着いた体に、満腹感が重なって一気に眠気が襲ってくる。で、気持ちよくうつらうつら字面を追っているところに、サトウから「一緒に新年会の食材の買い出しに行こう」との不快な電話。そこでもう6時かと目を覚ませ、エネルギー・スーパーへ鍋食材を買いに重い腰を上げる。
 夜は次第にサトウ以下6人の第四学区メンバーが集合し、鍋食い新年会。何故か話題は「年金」話に傾き、社会保険庁自治労の誇りなき怠慢と、みなの限りなき将来不安を確認しあい、深夜一時にお開き。今年もまた、きっと昨年と何も変わりそうもないな・・・。

こんにちは、2008年!

daily-komagome2008-01-02

晦日は、大掃除に終始。古くなった障子を張り替え、換気扇を含めて台所をまっさらにし、本棚を少し整理。で、DVD返却のついでに、今年最後の古本として林書店で四冊。

 2007年の〆としてはまぁまぁ。
 帰宅後、現在把握している住所の人にだけ年賀状を書いていたら(この流動性に満ち満ちた東京で分かっている住所など結局数える程度だし、親友達の住所さえ知らないのだが・・・)、12時前にカワサキ来訪。除夜の鐘を聴きながら、一緒に“染井神社”に初詣。参拝を済ませてから、無料で配られる御神酒と、年越し蕎麦を口にして、ついでにその足で巣鴨の“とげ抜き地蔵”まで行くことに。神社で柏を打ったその手で、今度は南無阿弥陀仏と手を合わせる自分を顧みて「やっぱり自分も無宗教(=内容より、形式!)の日本人だなぁ〜」と思いつつ、建ち並ぶ屋台で“塩大福”を3つ買って帰宅。で、4時頃まで嫁とカワサキとくつろいでいると、これから毎週一冊づつ小説を読み、それについて毎週末ダベるといった簡単な遊びを思いつく。初回は太宰治御伽草子』に決定。結局床に入ったのは朝五時だった。
 元旦からは2007年話題映画総括週間として、まずは映画『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト 』(スティーヴン・シャインバーグ監督/2007年・米/122min)から取りかかる。が、変態性癖(=アンチ・ヒューマン)と、フリークスとの交流(=ヒューマン)という背反する主題を同時に処理するという脚本レベルでの矛盾のため、イマイチ納得できず。
 二日は予定していた嫁の家族との食事会のため池袋へ。ついでにリブロで新刊を一冊。

 政治的先進国フランスが啓蒙合理主義で、経済的先進国イギリスが経験主義で、政治経済の両面で後進的だったドイツが観念論を身に帯びなければならなかったのだとすれば、まずは、その政治・経済的“経験”自体が皆無のアメリカは、現実的で実践的なプラグマティズムしか持ちようがなかったというのが紋切り型の整理になるのだろう。が、しかし、今度の『en-taxi』で野口良平が書いた「内戦の遺産−プラグマティズムへのもう一つの視角」で教えられたルイス・メナンドの『メタフィジカル・クラブ』は、それ以上の視座を用意してくれそうだ。つまりプラグマティズムアメリカという固有性を刻印したのが、まさに“南北戦争”といった歴史的経験だったのだという視点が断然新鮮で興味深かったのである。詳述する余裕はないが、あの脱構築的プラグマティスト=R・ローティまで続く“未完のプロジェクト”(=信念の多数性や、人間の可謬性を擁護するリベラリズム)の伝統が、アメリカ史上最大の内戦(戦争?)であった南北戦争の傷を引きずっていると聞けば、そこに孕まれた幾筋かのドラマを想像せざるを得ない。つまり、“戦前”においてイヤと言うほど「空想上の勝利」に翻弄されながら、しかし戦後になってその「超然とした理想主義」の限界をつきつけられた19世紀末の青年達(チャールズ・サンダース・パースウィリアム・ジェイムズアボットetc・・・)が、それでも、自らの「信念」を失わずに現実対処を可能としようとして掴んだ杖こそがプラグマティズムという思想だったのではなかったか・・・。とすれば、そのプラグマティズムに21世紀の日本に於ける同時代的主題を聞き取ることも可能だろう。手元には、積読しておいた冨田恭彦アメリ言語哲学入門』もあることだし、今年最初の“お勉強”はアメリカ・プラグマティズム思想史に決定だな。

やっと年末 

daily-komagome2007-12-31

 やっと講習も終わり一息だっだが、昨夜の銭湯があまりに気持ちよくて、そのままだらだらと寝正月へ突入する予感がしたので、その悪い予感を晴らすべく、まずは嫁と自転車にまたがり千駄木へ。“古書ほうろう”で二冊。

 その後“往来堂”まで足を延ばし、『en-taxi』(2008・winter)を買い、そのまま喫茶店“乱歩”で読書。『en-taxi』は、昔の気どらないB5版小冊子の方が、逆に中身が詰まったストリート文芸マガジンぽくって好きだったので、実は大冊になってここ2シーズンぐらいは買わなかった。が、今回の冬希号はなかなか読み応えがありそう。「アメリカ特集」や「写真機特集」などに加え、中原中也をめぐる対談、佐藤優との対談、落語関係の連載などなど、さすがの垂涎もの紙面で誘ってきた。
 しかし、時代を一緒に生きていると思える雑誌が、自分の横にあるっていうのは幸せだ。高校時代は、無理して『現代思想』や『ユリイカ』なんかを読みあさり、学部時代からは野暮な『批評空間』をご苦労にも買い続け、修士時代はこれまたダサい『重力』や、リニューアルした『早稲田文学』のお供をしたが、結局どれも煮え切らなかった。しかし、一時、仕事を移って本当に辛かったときに唯一友達だと思えたのは結局『en-taxi』だけだった。年に四度の発刊日をまだかまだかと指折り数え、買ったその日に喫茶店でむさぼり読んでどれだけ慰められたか・・・。戦時中、小林秀雄編集の『文学界』を戦地で読んだ青年が多かったとどこかで読んだが、結局、人が辛いときに支えてくれない雑誌など、底の知れた「知的お飾り」にしかすぎない。
 帰路、谷中銀座で夕食の具材を買って帰宅。
 夜は、『舞妓 Haaaan!!!』(水田伸生監督・宮藤官九郎脚本/東宝・2007年/120min)を観る。この手のコメディにコメントを付けるのも野暮だが、しかし、何も考えず大笑いできる映画ってのは、それだけで貴重でしょう。
 それにしても『下妻物語』にしても『嫌われ松子の一生』にしてもそうだったが、映画を観る前に不信を強い、それに反して観た後はすがすがしいというのは、やはり宣伝の仕方に問題があるのではないだろうか・・・・?特に最近の“映像派コメディ映画”みたいな作品は狙いすぎてていて、まさしく地雷映画が多すぎるが、しかしこの『舞妓 Haaaan!!!』に限ってはご安心を。ほとんど気色の悪い阿部サダヲの演戯に負ってはいるが、しかしただただ無意味に下らなく面白い。作品“外”のリアリティはいざ知らず、作品“内”リアリティにはどっぷり浸かれます

冬期講習

 70分授業を連続6〜7コマで、午後1時から夜の10時までの講習の日々が続く。でも普通の勤め人に比べれば、それでも午後出勤なんだから文句は言えない。ただ、家での予習を考えれば、やはり講習以外の時間があまりとれないのも事実。勉強や古本のことを考える余裕がなくなる反面、生徒と毎日顔を合わすものだから、イヤでも生徒達のことを考え続ける毎日。夢にまで出てきた。
 それでも、通勤電車中で坪内祐三の文庫書評本『文庫本福袋』(文春文庫)を読み継ぐのが楽しい。『文庫本を狙え!』の続刊本で、刊行時に一度ハードカバーでほんとんど読んでいるのだが、文庫では最初から通読する形で再度読みはじめる。ますます古本屋に行くのが楽しみになってきた。待ってろよ、年末!

ウィークエンド・ワセダへ

daily-komagome2007-12-24

 朝食後、ゆっくりと新聞を読んだ後、“ウィークエンド・ワセダ・お店で古本市”へ出掛ける。都電で早稲田まで行って、立石書店、飯島書店、古書現世という順番で回る。今日は少々無理をしたせいもあって、いい本が手に入った。

 特に嬉しかったのは、やはり最後の二冊。
 バーリンといえば、政治哲学領域で「消極的自由」と「積極的自由」を定式化した『自由論』ばかりが有名だが、個人的には“思想史家”としてのバーリンの方が何十倍も好き。バーリンと初めて出会ったのは、『ハリネズミと狐−「戦争と平和」の歴史哲学』(岩波文庫)という150頁程の薄い冊子だったが、この小冊子こそ、初めペンも持たずに何となく読み飛ばすつもりで手にして、しかし、読み終わる頃には三色蛍光ペンと欄外書き込みで埋め尽くされていたという一冊だった。そんな事、本当に稀にしかない経験なのだけど、その後も、平易で眼の覚めるように明快な『ロマン主義講義』や『北方の博士J・G・ハーマン』などには、クソほど教えられてきた。あえて、単純化すればハイエクの「自生的秩序」と、ポパーの「反歴史主義」の“思想史領域での検証”とでも言えるのかな。ちなみに、若い頃のバーリンラッセルなどの分析哲学との交流を持ちながら、しかし、その言語実証主義に反対して、オースティンなどのイギリス日常言語学派との討論会を自ら主催したことがなどは余り知られていない。本書は、その辺の事情もインタヴィューされているバーリン入門にはもってこいの本だろう。
 で、バルザックの『ラブイユーズ』も嬉しかった。かつての初心な文学青年には、俗で雑多で欲望過剰なバルザックは苦手だったと見えて、実は岩波文庫の『知られざる傑作』くらいしか読んでいないのだけど、『ラブイユーズ』だけは最近になってどうしても読みたいと思っていた。というのも、小林信彦『面白い小説を見つけるために』(坪内祐三が4回も読んだ)というという傑作小説論の中で、「物語の極限−「ラブイユーズ」」と、わざわざその中の一章を裂いて粗筋を論じて、バルザックの「いちばんおいしいところ」と臭わせ、訳者の吉村和明が「中期バルザックの代表作」と記し、鹿島茂が「隠れた名作」と断言するのであってみれば、少々値が張っても購入しないわけには行かないだろう。しかし、鹿島茂が『ラブイユーズ』について「文庫には一度も入ったことがないと思います。」と述べているが、実は『川揉み女』(「ラブイエ(=川を揉む)」という動詞からの派生か?)という邦題で戦後、角川文庫から上・下二冊で出ている。でも、鹿島でさえ知らないというのは、本当に「隠れた名作」なんだな。
 その後、早稲田でお茶して読書。
 帰りは山手線で帰宅。で、4時ごろから、昨日から再放送している『NHKドラマ特選・ハゲタカ』(イタリア賞受賞作品http://www.nhk.or.jp/hagetaka/movie.html)を今日も見る。テレビドラマにしては面白い。中島貞夫の『暴力金脈』にしろ、原田真人の『金融腐食列島・呪縛』にしろ、この手の経済ドラマは好きなのだけど、今回のドラマは不良債権・日本型経営VSグローヴァリズム・外資系金融ファンドという単純で不毛な二項対立に陥らないという点だけでも脚本の完成度を評価できる。「大儀=理想」の裏に張り付いている「経済=金」、と同時に「経済=金」の裏に必ず張り付いている「大儀=理想」。その矛盾に満ちたジグザグ歩行を描いて、「現実」の臨界的の手触りを与えられるかどうかが、この手のドラマの要だろう。「大儀=理想」と「経済=金」、そのどちらか一方に傾いても世界の感触など蘇らない。

 夜は、『M-1グランプリ』を見てから、また読書。サリンジャー=春樹訳『キャッチー・イン・ザ・ライ』にはほとほと唸らされる。