久しぶりの更新

daily-komagome2008-02-14

 このところ忙しくて更新できない。が、備忘程度に書いておこう。
 既に一週間近く前になるが、土曜日に友人五人と千葉の方まで小旅行。冬のどんよりした空の下、鄙びた地方都市の無理したリゾート演出の明るさは、逆にキッチュな哀しみを漂わせていて味わい深い・・・・? 都築響一の「珍日本」、もしくは山下の「リアリズムの宿」って感じか。田舎であることが哀しいのではない。田舎であるという自らの条件=事実を忘れた仕草が哀しいのである。
 車で朝七時頃出て、初めて“海ほたる”に立ち寄りつつ、アクアラインで千葉の漁港へ。そこで魚尽くしの朝飯に続いて、無意味にデカイにゃんだ(=猫だ)パーク併設のレジャー施設で珈琲。その後、風吹きすさぶ房総半島の最南端を無意味に眺めて、そこの見捨られた鉄棒で何年ぶりかの逆上がりに成功。イチゴ狩りをして後、ホテル静養園(右上図)の露天風呂(男湯は階上からの視線が気になったが、女湯はキッチュにも何故か“7人の小人”があしらわれていたそうな)で黒〜い天然温泉に浸かって体をほぐす。帰路、東京のマグロラーメンに立ち寄って夕食の後、やっと帰宅。12時頃までダベって解散。
 日曜は、谷根千方面に嫁と散歩。“ほうろう”と“ブーザンゴ”で4冊拾う。

 意外だったのは、北田の『嗤う日本の「ナショナリズム」』がよく纏まっていること。北田関係の本は、宮台との対談『限界の思考』や、『〈意味〉への抵抗』などという青臭い論文集は読んではいたものの、『嗤う日本〜』程の鮮明さはなかった。いや、この本だって半分以上は、宮台の『サブカルチャー神話解体』や、スガの『革命的な、あまりに革命的な』で提出されたネタの焼き直しと言った感じなのだけど、そこにシステム論的観察の問題=ローティ的「アイロニー」問題を絡ませてくるあたりの記述は、同時代的な緊張を感じることが出来た。ただねぇ〜、社会学者だから仕方がないのかも知れないけど、北田が見ている60年代〜90年代までの社会史的問題なんて、近代化この方、この国が何度繰り返してきたか分からない類のモノでしょ。文学史的に言ったって、自然主義文学(60年代的ベタ=過激化した反省)→耽美派(70年代的“抵抗としての無反省=無反省という反省”=荷風)→大正モダニズム(80年代的単なる無反省=谷崎・志賀)→昭和初期のプロレタリア文学・日本浪漫派(90年代的“無反省への反省”としてのロマン主義シニシズム)って感じで、そのまま嵌ってしまうんですね、これが。そして、日本浪漫派に関係しているにも拘わらず、単なる時代的反省に還元不可能な精神として、芥川龍之介太宰治三島由紀夫という三人を挙げ、その「反省の極北」に「三者三様の失敗=不幸」を認めたのが他ならぬ福田恒存だったのです。北田が、もし自分の書いているモノを単なる分析=お勉強にしたくないのなら、福田並みと言わないまでも、単なる「ベタ」(=対象・概念の絶対化)とも異なる、諦念=盲目性を覚悟した「信仰」(=人間・幸福論)が必要になるのだろう。でないと、今度は北田の分析それ自体が“時代的反省形態への反省(=様々なる意匠?)”に終わってしまうことは必定だ。