「悲劇」についてのノート

daily-komagome2008-02-15

 昨日は、自転車に乗って池袋西武イルムス館での古本祭りへ出掛ける。イルムス館の古本祭はいつも質がいいので張り切っていたのだが、何となく寂しい結果に。それでも古本は4冊。

その後、リブロで新刊一冊。

 帰宅後、G・スタイナー『悲劇の死』(ちくま学芸)の再読のため、ラシーヌの『フェードル』を読んでおく。カルデロンのスペイン悲喜劇が好きだったというコルネイユの劇は、バロック的要素が多く、逆に『ル・シッッド』の様な古典悲劇が例外に相当するという意味でも(ただ、それでも古典劇の規則である「三単一の法則」違反について、「ル・シッド論争」が巻き起こる程度にはバロック的だった訳だが)、フランス古典主義演劇の最高峰と言えばやはりラシーヌの『フェードル』に落ち着いてしまう気がする。そういえば、かつて鈴木忠は、演劇=戯曲を切りつめていけば最終的に、シェイクスピアラシーヌチェーホフの三人に還元できると書いていたっけ。で、確かにその一画を成すのも頷けるほどの窮極の完成度。唯一比較できるのは、三島由紀夫幾何学的に計算され切った戯曲だけかな。
 その感想を一言で記せば、「悲劇の原型式を見るような感覚」とでも言うのか。近代的内面などの心理的言い訳などは全くない。ハムレット的な自問自答なども皆無だ。唯一、古典ギリシアになかった「恋愛」の内なる情熱という要素はあるが、それでも、そこに“神秘的”などと余裕をかませる甘いロマンティシズムはない。あるのは、訳も分からず世界に被投された事実性への受苦=パッションだけである。その意味では、登場人物の誰もが自分の立場=役割(王、妃、侍従、乳母etc・・・)を必死に演じきっており、誰もが自らの筋を通すことにおいて一貫し、誰一人として間違ってはいない。しかし、誰もが世界を俯瞰できないという条件故に、それら個々の一貫性は、複数化すれば幾筋の縺れとならざるをえず、それが結局人物相互間のズレとして現象してしまう。いや、ズレを解消しようとするその仕草が、より不可避的に大きなズレを引き寄せてしまうという循環に、『フェードル』を「悲劇の原型式」たらしめている所以があるのだ。
 人は、この世界で生きる限り他者との関わりを避けてる通ることが出来ない。が、同時に人は、複数の他者にその都度追随するアナーキー=混乱にも耐えることが出来ない。故に人は、他者との折り合いがつく場所=役割に、かろうじて己の一貫性を託そうとする。が、ちょっとした切っ掛けで“折り合いの場所=役割”を見失ったとしたら、そこに、我々の「悲劇」の手触りが甦るだろう。つまり、実は誰一人その“折り合いの場所”を対象化=明示化できないが故に破綻をきたす相互コミュニケーション(=郵便的誤配?)の背後に、その破綻を運命づけていた“誰も俯瞰することが出来ない世界”を感じるのである。故に、しばしば誤解されているように、悲劇の主人公は、その傷を一身に受ける「英雄=ヒーロー」ではない。感情移入=同情を一身に引き受けていた「英雄=ヒーロー」が斃れたその背後から、それを「斃している何か」として浮かび上がってくる「世界」そのもの(故にギリシア悲劇では、端的にそれは“神”そのもの)こそが、悲劇の真の主人公なのである。その一貫性故に感情移入=同情を引き寄せる「英雄=ヒーロー」が斃れることによってこそ、我々は身を裂くような哀しみとともに、しかしそれでも、その背後に泰然自若としている非情な「世界=神」の“動かし難さ”を感じ、そこに諦め引き受けるべき「存在」のありかを見出す(=カタルシス・慰め)のである。もちろん、その引き受けるべき「存在」は明示的に名指し得ないが、有限的で相対的な事象の“否定”において、辛うじて“感じられる”類の絶対性・無限性だろう。もちろん、この語法は「否定神学」的ではある。が、「否定神学」的語りは、初めから神(=外)を目ざして積み上げられる事後的(=内的)な否定的概念規定だが、「悲劇」的実践は、何らの前提もない場所に描かれる事前的跳躍(内と外の境界=間)の否定性の問題である。「神学」と「芸術」を分ける線分はここにある。