新年の大収穫
朝のうちに『叫』(黒沢清監督/2007年/104min)を鑑賞。日本版ホラーの佳作。黒沢清にしては、斜に構えることなく正面から撮った方だろう。神(=第三人称的垂直軸)を媒介に出来ない他者関係は、必然として二人称的関係(=水平的ズルズルベッタリ)へと閉塞し、故に、現実から疎外されながら、しかし神においても救われない精神は、この世に怨霊として留まらざるを得ないといった日本的ホラーの説話法は、今もって有効なんだとつくづく感じた。逆に、この日本的ホラーが、世界的に“売れる”という現象が、「西洋の日本化(=垂直軸の水平化→他者志向による自意識過剰→ルサンチマンの連鎖)」というコジェーブの「ポスト歴史=ポストモダン」定義のリアリティと相俟って、空恐ろしくなる。
その後、12時過ぎに年始の古本市として池袋往来座の“外市”に自転車で直行。しかし、さすがに仕事までの時間が押しており、外棚を見られたのは30分程度。それでも良い本を見つけることが出来た。
- 中条章平『中条章平は二度死ぬ!』(清流出版)
- 坪内祐三『アメリカ−村上春樹と江藤淳の帰還』(扶桑社)
- 吉田健一『怪奇な話』(中公文庫)
- 野口冨士男『私のなかの東京−わが文学散歩』(中公文庫)
- 森敦『わが青春 わが放浪』(福武文庫)
- 吉行淳之介『詩とダダと私と』(福武文庫)
- 織田作之助『夫婦善哉』(講談社文芸文庫)
- 色川武大『生家へ』(中公文庫)
- 大川渉・編『短篇礼讃−忘れかけた名品』(ちくま文庫)
織田作と、大川編の短編集二冊以外全ては絶版文庫。しかも既に福武文庫に到っては文庫自体がないというのに それでも全部でたったの2700円!と言うことはハードカバーも含めて全て300円均一で買ったことになる。なんて安くて粒ぞろいなんだ“外市”!
その後、直帰して仕事へ。
ちなみに、通勤に携帯した『中条章平は二度死ぬ!』には、あの当時三十七歳の松本俊夫をして「心強い同盟者」と言わしめ、また、当時筑波大付属高校一年だった四方田犬彦が「これはかなわんな、食い物が違うんじゃないか」「天才というのはいるんだなと思った」と回想する麻布中学三年十五歳当時の中条章平による「『薔薇の葬列』論−現代状況への批判の刃」(『季刊フィルム』1969)が再録されている。ウチの師匠が、よく草月ホール(アートシアターか、蠍座だった気もする・・・)で、自分の隣でフランスパンをかじりながら映画を観ていたと証言するあの十五歳の中条章平少年の文章だ。確かに、今読むと、読んでるこっちが恥ずかしさで赤面するような背伸びした文章だが、中年を過ぎてそれなりに過去を整理した中条が「逆に隠し続けるのも大人げない」と観念したんだろう。実際、その後の中条の自己喪失・漂流と、そこからの再生を知っていればこそ、味わい深くなる「若書き」の典型だ。その意味では、ついこの前文庫化されたばかりの『クリント・イーストウッド−アメリカ映画史を再生する男』(ちくま文庫)を横に置き、その落ち着いた文体をも味わうことで、一人の人間の痛々しい成熟の跡を確認するのもまた乙だろう。
帰宅後、今日の収穫を吟味していたら、小山清(『短篇礼讃』所収)、吉田健一、野口冨士男、森敦、織田作などが、太宰治、保田與重郎、福田恒存などとほぼ同世代(1911年〜1913年生まれ)であることに気が付く。実は、ここから興味深い線が引けるのだが・・・・今日は、もう時間がない。