久しぶり

今日で冬期講習も終わり。で、冬期講習漬けのため、頭が論文から切れたので少しだけ書く気になった。年賀状を書いたのも影響したかな。でも、もう2008年も終わりです。
 来年もいい年でありますように。また2009年の春頃にはブログを再開できるといいのだけど・・・・・・。論文調の肩の張る文体も時にはいいけど、やはり気楽にも書きたい。

しばしの休止

 このブログもノート代わりに重宝していたのですが、いよいよ論文が忙しくなってきた感じです。そのため、最近では美術展や映画の感想どころか、古本の備忘さえ覚束なくなってしまいました。論文など書いても、その先どうなるわけでもないのですが、まぁケジメとして、また福田恒存への恩返しとして精魂込めて書きたいと思っています。ということで、ブログは一度ここらで休止して、全精力を論文に捧げたいと思っている次第です。
 まぁ、人間ですから、衝動的に書き込むこともあるかも知れませんが、頻度は圧倒的に少なくなるでしょう。これまで書き込みをしてくれた方々、ありがとうございました。野暮ったくも長々と書いていたので、あまり読みやすいブログではなかったという自覚はありますが、書き込みがあったときは素直にうれしかったです。では、また暇になる日まで、さようなら。

久しぶりに「リベラリズム」のお勉強でもするか

daily-komagome2008-02-16

 駒込の地元の古本屋で一ヶ月ぶりに2000円を超える買い物をした。

 う〜む、思いのほか北田の『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)が面白かったと見える。少なくとも、東浩紀動物化するポストモダン』的な成熟社会論などよりは圧倒的に手堅い。もちろん一定の留保はある。偉そうに言えば「何でそんな薄っぺらな“現象(80年代)”に拘泥してんの? 問い方が逆で、この国の“近代”を脱臼させるのがアイロニーなのではなく、アイロニーを加速せざるをえない“近代”こそが問題なんでしょ」というツッコミがまず口をついて出るし、90年代以降のロマン主義的機会原因論を批判しながら、その結論を「歴史なき時代において、ということは処方箋=思想が敗北すること―スノッブの否定の対象になること―を宿命づけられた時代において、それでも絶望せずに思想を語り続けること」とする語り口自体が、実のところ、そのまま「偉大な敗北」を覚悟しながら群衆というデカダンス(=大衆消費社会・相対主義の泥沼)を向こうに回して“日本=思想”を語り続けた保田與重郎ロマン主義的な振る舞いに限りなく近づいてしまっているというイロニーはいかんともし難い。どんなに詳細な「分析」も、所詮新たな「反省=アイロニー」にしかならないという事実を自ら証明してしまっている感じだ。
 しかし、それでもロールズ/ローティ的なリベラリズム(=アイロニズム)は、素朴な信頼を底支えする共同体主義に接続されて初めて、その「空転」が抑止し得るといった原理への自覚は落ち着いている(が、北田はローティ的な振る舞いは、日本では有効ではないとしているが…)。ただ、主題や紙幅の問題もあってなのか、そのあたりの彫り込みが浅かったのには少し不満が残った。もっと言えば、社会学共同体主義コミュニタリアンとして対象化する概念は、果たして対象化し切れるものなのか? 共同性を対象化(=ネタ化)した瞬間、それを対象化=反省している主観はアイロニーに囚われるわけだから、必然としてその共同性への“素朴な信頼”は調達不可能になるだろう。恐らく、このあたりに“現象”を対象化=ネタ化する社会科学一般(=主観の孤立・孤独)と、不合理な型への嗜好・執着をパフォーマティブに示す文学・藝術(小林秀雄的、もしくはヴィトゲンシュタイン的「無私」)との境界線がある。しかし、本書がその理論的解答ということになっているのかもしれない。大枚の金を払っている訳だし、期待することにしよう。

「悲劇」についてのノート

daily-komagome2008-02-15

 昨日は、自転車に乗って池袋西武イルムス館での古本祭りへ出掛ける。イルムス館の古本祭はいつも質がいいので張り切っていたのだが、何となく寂しい結果に。それでも古本は4冊。

その後、リブロで新刊一冊。

 帰宅後、G・スタイナー『悲劇の死』(ちくま学芸)の再読のため、ラシーヌの『フェードル』を読んでおく。カルデロンのスペイン悲喜劇が好きだったというコルネイユの劇は、バロック的要素が多く、逆に『ル・シッッド』の様な古典悲劇が例外に相当するという意味でも(ただ、それでも古典劇の規則である「三単一の法則」違反について、「ル・シッド論争」が巻き起こる程度にはバロック的だった訳だが)、フランス古典主義演劇の最高峰と言えばやはりラシーヌの『フェードル』に落ち着いてしまう気がする。そういえば、かつて鈴木忠は、演劇=戯曲を切りつめていけば最終的に、シェイクスピアラシーヌチェーホフの三人に還元できると書いていたっけ。で、確かにその一画を成すのも頷けるほどの窮極の完成度。唯一比較できるのは、三島由紀夫幾何学的に計算され切った戯曲だけかな。
 その感想を一言で記せば、「悲劇の原型式を見るような感覚」とでも言うのか。近代的内面などの心理的言い訳などは全くない。ハムレット的な自問自答なども皆無だ。唯一、古典ギリシアになかった「恋愛」の内なる情熱という要素はあるが、それでも、そこに“神秘的”などと余裕をかませる甘いロマンティシズムはない。あるのは、訳も分からず世界に被投された事実性への受苦=パッションだけである。その意味では、登場人物の誰もが自分の立場=役割(王、妃、侍従、乳母etc・・・)を必死に演じきっており、誰もが自らの筋を通すことにおいて一貫し、誰一人として間違ってはいない。しかし、誰もが世界を俯瞰できないという条件故に、それら個々の一貫性は、複数化すれば幾筋の縺れとならざるをえず、それが結局人物相互間のズレとして現象してしまう。いや、ズレを解消しようとするその仕草が、より不可避的に大きなズレを引き寄せてしまうという循環に、『フェードル』を「悲劇の原型式」たらしめている所以があるのだ。
 人は、この世界で生きる限り他者との関わりを避けてる通ることが出来ない。が、同時に人は、複数の他者にその都度追随するアナーキー=混乱にも耐えることが出来ない。故に人は、他者との折り合いがつく場所=役割に、かろうじて己の一貫性を託そうとする。が、ちょっとした切っ掛けで“折り合いの場所=役割”を見失ったとしたら、そこに、我々の「悲劇」の手触りが甦るだろう。つまり、実は誰一人その“折り合いの場所”を対象化=明示化できないが故に破綻をきたす相互コミュニケーション(=郵便的誤配?)の背後に、その破綻を運命づけていた“誰も俯瞰することが出来ない世界”を感じるのである。故に、しばしば誤解されているように、悲劇の主人公は、その傷を一身に受ける「英雄=ヒーロー」ではない。感情移入=同情を一身に引き受けていた「英雄=ヒーロー」が斃れたその背後から、それを「斃している何か」として浮かび上がってくる「世界」そのもの(故にギリシア悲劇では、端的にそれは“神”そのもの)こそが、悲劇の真の主人公なのである。その一貫性故に感情移入=同情を引き寄せる「英雄=ヒーロー」が斃れることによってこそ、我々は身を裂くような哀しみとともに、しかしそれでも、その背後に泰然自若としている非情な「世界=神」の“動かし難さ”を感じ、そこに諦め引き受けるべき「存在」のありかを見出す(=カタルシス・慰め)のである。もちろん、その引き受けるべき「存在」は明示的に名指し得ないが、有限的で相対的な事象の“否定”において、辛うじて“感じられる”類の絶対性・無限性だろう。もちろん、この語法は「否定神学」的ではある。が、「否定神学」的語りは、初めから神(=外)を目ざして積み上げられる事後的(=内的)な否定的概念規定だが、「悲劇」的実践は、何らの前提もない場所に描かれる事前的跳躍(内と外の境界=間)の否定性の問題である。「神学」と「芸術」を分ける線分はここにある。

久しぶりの更新

daily-komagome2008-02-14

 このところ忙しくて更新できない。が、備忘程度に書いておこう。
 既に一週間近く前になるが、土曜日に友人五人と千葉の方まで小旅行。冬のどんよりした空の下、鄙びた地方都市の無理したリゾート演出の明るさは、逆にキッチュな哀しみを漂わせていて味わい深い・・・・? 都築響一の「珍日本」、もしくは山下の「リアリズムの宿」って感じか。田舎であることが哀しいのではない。田舎であるという自らの条件=事実を忘れた仕草が哀しいのである。
 車で朝七時頃出て、初めて“海ほたる”に立ち寄りつつ、アクアラインで千葉の漁港へ。そこで魚尽くしの朝飯に続いて、無意味にデカイにゃんだ(=猫だ)パーク併設のレジャー施設で珈琲。その後、風吹きすさぶ房総半島の最南端を無意味に眺めて、そこの見捨られた鉄棒で何年ぶりかの逆上がりに成功。イチゴ狩りをして後、ホテル静養園(右上図)の露天風呂(男湯は階上からの視線が気になったが、女湯はキッチュにも何故か“7人の小人”があしらわれていたそうな)で黒〜い天然温泉に浸かって体をほぐす。帰路、東京のマグロラーメンに立ち寄って夕食の後、やっと帰宅。12時頃までダベって解散。
 日曜は、谷根千方面に嫁と散歩。“ほうろう”と“ブーザンゴ”で4冊拾う。

 意外だったのは、北田の『嗤う日本の「ナショナリズム」』がよく纏まっていること。北田関係の本は、宮台との対談『限界の思考』や、『〈意味〉への抵抗』などという青臭い論文集は読んではいたものの、『嗤う日本〜』程の鮮明さはなかった。いや、この本だって半分以上は、宮台の『サブカルチャー神話解体』や、スガの『革命的な、あまりに革命的な』で提出されたネタの焼き直しと言った感じなのだけど、そこにシステム論的観察の問題=ローティ的「アイロニー」問題を絡ませてくるあたりの記述は、同時代的な緊張を感じることが出来た。ただねぇ〜、社会学者だから仕方がないのかも知れないけど、北田が見ている60年代〜90年代までの社会史的問題なんて、近代化この方、この国が何度繰り返してきたか分からない類のモノでしょ。文学史的に言ったって、自然主義文学(60年代的ベタ=過激化した反省)→耽美派(70年代的“抵抗としての無反省=無反省という反省”=荷風)→大正モダニズム(80年代的単なる無反省=谷崎・志賀)→昭和初期のプロレタリア文学・日本浪漫派(90年代的“無反省への反省”としてのロマン主義シニシズム)って感じで、そのまま嵌ってしまうんですね、これが。そして、日本浪漫派に関係しているにも拘わらず、単なる時代的反省に還元不可能な精神として、芥川龍之介太宰治三島由紀夫という三人を挙げ、その「反省の極北」に「三者三様の失敗=不幸」を認めたのが他ならぬ福田恒存だったのです。北田が、もし自分の書いているモノを単なる分析=お勉強にしたくないのなら、福田並みと言わないまでも、単なる「ベタ」(=対象・概念の絶対化)とも異なる、諦念=盲目性を覚悟した「信仰」(=人間・幸福論)が必要になるのだろう。でないと、今度は北田の分析それ自体が“時代的反省形態への反省(=様々なる意匠?)”に終わってしまうことは必定だ。

ハネケについてのメモ 

daily-komagome2008-02-05

 一昨日の夜は、AKRとシバノ、ジゼルさんが持ってきてくれた『ピアニスト』(ミヒァエル・ハネケ監督/フランス、オーストリア・2001年/132min)を鑑賞。ハネケは『フラグメンツ』に続いて二本目だけど、今回の方が衝撃は大きかった。なるほど、さすが、グランプリを含むカンヌ三冠のハネケ作品。尋常ではない緊迫感で130分間一瞬たりとも弛まない。しかしそれにしても、カタルシスを一切拒んだ悲劇とでもいうのか、この自閉した=都合のいいナルシズムがスレ違うだけの痛々しい「愛の物語」は、かつてない程に後味が悪すぎる。もちろん、この「突き放し方」こそ、坂口安吾が「文学のふるさと」と呼んだファルスの手触りなのだと肯定的に評価することも可能だろうし、また解釈を絶して動かない実在=他者の感触だということも出来る。その意味で、作品そのものは、現代映画作家の傑作の中でもほとんどお目にかかれない強度に貫かれている。が、作中人物論はその限りではないところが微妙なんだよな。人物的には、彼/彼女の行動はいくらでも解釈できるし、実際、その解釈において全く肯定性が不在だというところに映画がカタルシスを拒んでいる要因がある。悲劇的主人公というのは、ギリシア悲劇にしろシェイクスピア悲劇にしろ、いや近代小説にしても、何かしらの「偉大さ」を持っており、その個人における「一貫性」が引き寄せる不条理な宿命に、実は我々の不幸を託し得る救いの手掛かりを見出すころが出来るのだが・・・果たして、ハネケ的人物達は余りに卑小にすぎはしないか。だから、彼/彼女の崩壊の先に(もしくは背後に)、第三人称的肯定性が現れることはなく、飽くまでも二人称的閉塞の中で浄化されないズルズルベッタリの怨念=不幸が残留する感覚が強いられる。で、この不幸の感覚があまりにリアルなので、観て後しばらくは、当て処なく目を泳がせながら呆然とせざるを得ないといった感じなのだ。しかも、この不幸はあまりに現実に近すぎる。その意味で、ハネケは、「芸術」が「現実」の“写し”や“否定”ではなく、現実の“否認”であるという自分の基準を今更ながら問いただてくるのだ。はっきり言えば趣味ではないが、この際、好きか嫌いかは括弧に入れよう。その限りで、久しぶりにもう少し追ってみたいと思わせる作家が視界に浮上してきた。 
 で、昨日は銀行の用事を済ませるために池袋にいったついでに、久しぶりに往来座へ。そこで4冊。

 帰宅後は、『カポーティ短編集』と、ドゥルーズ『カントの批判哲学』を読む。
 しかし、書いていて気が付いたけど、ハネケめぐる評価は、戦前の若き福田恒存が書いた「マクベス批判」(後に訂正)と、反対に若き柄谷行人が「意味という病」を批判して書いた「マクベス評価」の対立を思い出させる。そして両者の対立はその前提の違いに起因していた。つまり、アートは、アナーキーな現実(差異の生成)を臨界的に規矩せんがために(大地の世界化)こそ存在するのか(ハイデガー福田恒存)、逆に制度化された現実を脱領域化=差異化(外への逃走線を引くこと)せんがために存在するのか(ポスト構造主義柄谷行人)という概念的闘争がそこにある。が、果たして、それは本当に二項対立を構成するのか?恐らくそれは、贋の対立だろう。なぜなら、「外へ」の逃走線それ自体が既に常に生成する領土を描き出してしまう(=世界を出現させてしまう)のだから。ドゥルーズの「内在平面」という概念の閉塞を考えても、それは言えると思う。ポスト構造主義者達の「近代=個体主義批判」は、自己の有限性に対する「諦念=信仰」の問題を抜すから閉塞するのだ。今こそ小林秀雄ベルグソンを論じて「無私」と言って後、「本居宣長」を書いた意味を考えるべきなのだ。と、まぁ熱くなっても仕方がないか・・・・。

“ポオ会”

daily-komagome2008-02-04

 朝、嫁を見送って後、新聞を読んでから、自転車で“谷根千”方面へ。オヨヨ書林から往来堂、古書ほうろうを回って駒込に帰る。新刊・古本合わせて6冊。まず“つい出たか!”という新刊二冊。

続いて古本。

 帰宅した時は、新潮文庫生島遼一訳(1951)で挫折していた『ドルジェ伯』に、今度こそ鈴木衛訳(1957)で挑戦だと意気込んではいたのだが、しかし、夜の“エドガー・アラン・ポー会”のことを考えて一応今日買った岩波文庫版を読んでおく。2006年に新刊された岩波文庫のポーの短編集には、ちくま文庫の『エドガー・アラン・ポー短編集』(2007)や、新潮文庫の『モルグ外街の殺人事件』(1951)『黒猫・黄金中』(1951)が所収していない初期ゴシック・ロマンや、あの「群集の人」が入っているのだ。もちろん、少し古い創元推理文庫の『ポオ小説全集(全4巻+別巻)』(1974〜1979)には全部入っているのだろうけど、手元には4巻と別巻しかない。
 ポーを読み終わった頃に、丁度嫁が帰宅したので、一緒にカレーを食べに行き、帰路“亀の湯”でカワサキと落ち合って体を温めて一緒に帰宅。その後、家の都合で今夜だけ泊めてくれと来たシバノも加えて、一緒に“ポオ会”。テキストは、最新で読み易い西崎憲の翻訳に、充実した「小伝・解説」を付した『エドガー・アラン・ポー短編集』(ちくま文庫)を使う。
 紋切り型になるが、ポーの短篇を一言で評せば、“アメリカ=中心の喪失”が招く、近代の廃墟=暗黒の中で、がらくた同然に散らばった個人的記憶・偶然を寄せ集めて必死に作った虚構=人工的防壁の輝きとでも言うのか。ポーにおいては、近代の大衆消費社会のデカダンス(犯人=探偵という自己言及的孤独)を距離化=美学化すれば、それが探偵小説(趣味=「モルグ街の殺人」「群衆の人」)になるし、そのデカンダンスの距離化に失敗した事実(=自己分裂的崩壊)を書き留めれば、それがゴシック・ロマン(崇高=「告げ口心臓」「アッシャー家の崩壊」「ウィリアム・ウィルソン」)になる。その意味では、“観察的距離(=近代美学)とその崩壊(=崇高・グロテスク)”という物語を、伝統に支えられない個人的・断片的記憶の継ぎはぎで、「理性・生・昼」の限界に不意に滲み出す「恐怖・死・夜」のイメージ=効果へと仕立て上げるポー独特の魔術的マニエリスム(「赤き死の仮面」「ヴァルドマール氏の死の真相」)は、後のボードレール象徴主義純粋詩散文詩)を予想させるに充分だ。いや、もっと言うのなら、初期の短編集である『グロテスクとアラベスクの物語』(1840)所収の「メッツェンガーシュタイン」に付されてある「ドイツ人に学びて」という副題、または 「マリ・ロジェエの迷宮事件」のプロローグに引かれてあるノヴァーリスの言葉、そしてシェイクスピアやシュレーゲル(兄)、ホフマンを読んでいたというポーの履歴を考えれば、やはり、ポー的感性の起源はドイツ・ロマン派に観た方がいい気がする。そういえば、後にキッチュな「ゴシック」を発見したのもシュレーゲル(弟)だった。とすると、カントの批判哲学→ドイツ浪漫派(フィヒテ、シュレーゲル)→イギリス・ロマン派(コールリッジ、バイロン)→ポー→ボードレールという系譜が浮かび上がってくる。そして、その全てに絡んでいるの批評家としてベンヤミンを思い出すと、ドイツ神秘主義を介してユダヤ神秘主義へと、はや妄想は止めどない。