ハネケについてのメモ 

daily-komagome2008-02-05

 一昨日の夜は、AKRとシバノ、ジゼルさんが持ってきてくれた『ピアニスト』(ミヒァエル・ハネケ監督/フランス、オーストリア・2001年/132min)を鑑賞。ハネケは『フラグメンツ』に続いて二本目だけど、今回の方が衝撃は大きかった。なるほど、さすが、グランプリを含むカンヌ三冠のハネケ作品。尋常ではない緊迫感で130分間一瞬たりとも弛まない。しかしそれにしても、カタルシスを一切拒んだ悲劇とでもいうのか、この自閉した=都合のいいナルシズムがスレ違うだけの痛々しい「愛の物語」は、かつてない程に後味が悪すぎる。もちろん、この「突き放し方」こそ、坂口安吾が「文学のふるさと」と呼んだファルスの手触りなのだと肯定的に評価することも可能だろうし、また解釈を絶して動かない実在=他者の感触だということも出来る。その意味で、作品そのものは、現代映画作家の傑作の中でもほとんどお目にかかれない強度に貫かれている。が、作中人物論はその限りではないところが微妙なんだよな。人物的には、彼/彼女の行動はいくらでも解釈できるし、実際、その解釈において全く肯定性が不在だというところに映画がカタルシスを拒んでいる要因がある。悲劇的主人公というのは、ギリシア悲劇にしろシェイクスピア悲劇にしろ、いや近代小説にしても、何かしらの「偉大さ」を持っており、その個人における「一貫性」が引き寄せる不条理な宿命に、実は我々の不幸を託し得る救いの手掛かりを見出すころが出来るのだが・・・果たして、ハネケ的人物達は余りに卑小にすぎはしないか。だから、彼/彼女の崩壊の先に(もしくは背後に)、第三人称的肯定性が現れることはなく、飽くまでも二人称的閉塞の中で浄化されないズルズルベッタリの怨念=不幸が残留する感覚が強いられる。で、この不幸の感覚があまりにリアルなので、観て後しばらくは、当て処なく目を泳がせながら呆然とせざるを得ないといった感じなのだ。しかも、この不幸はあまりに現実に近すぎる。その意味で、ハネケは、「芸術」が「現実」の“写し”や“否定”ではなく、現実の“否認”であるという自分の基準を今更ながら問いただてくるのだ。はっきり言えば趣味ではないが、この際、好きか嫌いかは括弧に入れよう。その限りで、久しぶりにもう少し追ってみたいと思わせる作家が視界に浮上してきた。 
 で、昨日は銀行の用事を済ませるために池袋にいったついでに、久しぶりに往来座へ。そこで4冊。

 帰宅後は、『カポーティ短編集』と、ドゥルーズ『カントの批判哲学』を読む。
 しかし、書いていて気が付いたけど、ハネケめぐる評価は、戦前の若き福田恒存が書いた「マクベス批判」(後に訂正)と、反対に若き柄谷行人が「意味という病」を批判して書いた「マクベス評価」の対立を思い出させる。そして両者の対立はその前提の違いに起因していた。つまり、アートは、アナーキーな現実(差異の生成)を臨界的に規矩せんがために(大地の世界化)こそ存在するのか(ハイデガー福田恒存)、逆に制度化された現実を脱領域化=差異化(外への逃走線を引くこと)せんがために存在するのか(ポスト構造主義柄谷行人)という概念的闘争がそこにある。が、果たして、それは本当に二項対立を構成するのか?恐らくそれは、贋の対立だろう。なぜなら、「外へ」の逃走線それ自体が既に常に生成する領土を描き出してしまう(=世界を出現させてしまう)のだから。ドゥルーズの「内在平面」という概念の閉塞を考えても、それは言えると思う。ポスト構造主義者達の「近代=個体主義批判」は、自己の有限性に対する「諦念=信仰」の問題を抜すから閉塞するのだ。今こそ小林秀雄ベルグソンを論じて「無私」と言って後、「本居宣長」を書いた意味を考えるべきなのだ。と、まぁ熱くなっても仕方がないか・・・・。