“ポオ会”

daily-komagome2008-02-04

 朝、嫁を見送って後、新聞を読んでから、自転車で“谷根千”方面へ。オヨヨ書林から往来堂、古書ほうろうを回って駒込に帰る。新刊・古本合わせて6冊。まず“つい出たか!”という新刊二冊。

続いて古本。

 帰宅した時は、新潮文庫生島遼一訳(1951)で挫折していた『ドルジェ伯』に、今度こそ鈴木衛訳(1957)で挑戦だと意気込んではいたのだが、しかし、夜の“エドガー・アラン・ポー会”のことを考えて一応今日買った岩波文庫版を読んでおく。2006年に新刊された岩波文庫のポーの短編集には、ちくま文庫の『エドガー・アラン・ポー短編集』(2007)や、新潮文庫の『モルグ外街の殺人事件』(1951)『黒猫・黄金中』(1951)が所収していない初期ゴシック・ロマンや、あの「群集の人」が入っているのだ。もちろん、少し古い創元推理文庫の『ポオ小説全集(全4巻+別巻)』(1974〜1979)には全部入っているのだろうけど、手元には4巻と別巻しかない。
 ポーを読み終わった頃に、丁度嫁が帰宅したので、一緒にカレーを食べに行き、帰路“亀の湯”でカワサキと落ち合って体を温めて一緒に帰宅。その後、家の都合で今夜だけ泊めてくれと来たシバノも加えて、一緒に“ポオ会”。テキストは、最新で読み易い西崎憲の翻訳に、充実した「小伝・解説」を付した『エドガー・アラン・ポー短編集』(ちくま文庫)を使う。
 紋切り型になるが、ポーの短篇を一言で評せば、“アメリカ=中心の喪失”が招く、近代の廃墟=暗黒の中で、がらくた同然に散らばった個人的記憶・偶然を寄せ集めて必死に作った虚構=人工的防壁の輝きとでも言うのか。ポーにおいては、近代の大衆消費社会のデカダンス(犯人=探偵という自己言及的孤独)を距離化=美学化すれば、それが探偵小説(趣味=「モルグ街の殺人」「群衆の人」)になるし、そのデカンダンスの距離化に失敗した事実(=自己分裂的崩壊)を書き留めれば、それがゴシック・ロマン(崇高=「告げ口心臓」「アッシャー家の崩壊」「ウィリアム・ウィルソン」)になる。その意味では、“観察的距離(=近代美学)とその崩壊(=崇高・グロテスク)”という物語を、伝統に支えられない個人的・断片的記憶の継ぎはぎで、「理性・生・昼」の限界に不意に滲み出す「恐怖・死・夜」のイメージ=効果へと仕立て上げるポー独特の魔術的マニエリスム(「赤き死の仮面」「ヴァルドマール氏の死の真相」)は、後のボードレール象徴主義純粋詩散文詩)を予想させるに充分だ。いや、もっと言うのなら、初期の短編集である『グロテスクとアラベスクの物語』(1840)所収の「メッツェンガーシュタイン」に付されてある「ドイツ人に学びて」という副題、または 「マリ・ロジェエの迷宮事件」のプロローグに引かれてあるノヴァーリスの言葉、そしてシェイクスピアやシュレーゲル(兄)、ホフマンを読んでいたというポーの履歴を考えれば、やはり、ポー的感性の起源はドイツ・ロマン派に観た方がいい気がする。そういえば、後にキッチュな「ゴシック」を発見したのもシュレーゲル(弟)だった。とすると、カントの批判哲学→ドイツ浪漫派(フィヒテ、シュレーゲル)→イギリス・ロマン派(コールリッジ、バイロン)→ポー→ボードレールという系譜が浮かび上がってくる。そして、その全てに絡んでいるの批評家としてベンヤミンを思い出すと、ドイツ神秘主義を介してユダヤ神秘主義へと、はや妄想は止めどない。