「朝日社説−教育再生会議・安倍氏と共に去りぬ 」への愚痴

 昨日31日、最終報告を福田に提出した教育再生会議は、その役割を一応終えた。まぁ、安倍が去って後、各方面の利害を折衝して提出された結論などに実効性も政治力もあるわけもないのだが、しかし、それにしても「朝日」の批判は頭が悪すぎるね。以下は、2月1日付けの朝日新聞朝刊の社説の摘要。

私たちは社説で、この改正の持つ問題点を再三指摘した。学力の向上やいじめの解決につながるのか。文科省の管理が強まれば、教師を萎縮(いしゅく)させ、現場の工夫をそいでしまわないか。(中略)提言そのものに力があれば、旗振り役の安倍氏が去っても、その提言は世論の支持を得たのではないか。結局、提言には見るべきものがなかったということだろう。(中略)その際、大切なのは政治や行政の思惑から離れて一から議論を積み上げることだ。時の政権がやりたいことを後付けするのでは意味がない。

 凄いね、この思考停止の“文科省=政治権力(悪)VS現場=創意工夫(善)”の二項対立観念と、何らの具体性を伴わない“よい子の解答”。な、わきゃねぇだろう。逆に、校長の権限が限定されていたところに、職員会議の権力闘争(日教組VS一般教員)の不毛な対立を許し、現場の怠慢が見過ごされてきたというのに、その「痛いところ」には触れずじまい。「現場」に任せば、そんなにハッピーになるなら、いっそのこと「現場」しかない塾の方をもっと褒めて欲しいね。それこそ授業規律の躾から、ABCの補習、御三家進学まで一手に引き受けますよ。
 そういえば、ある日、うちの塾の“できない”生徒が(“できない”ってとこが重要!)、学校の先生に「塾では教えてくれるのに、何で学校では英文法を教えてくれないの?」と聞いたら、その先生は「中学生は、文法よりも話すことと聞くことを中心に学ぶからだよ」と答えたそうな。で、その“できない生徒”は「意味も分からないのに、話せるわけなぇだろ!」という真っ当な反応によって、ますます学校への不信を高めてしまったとのことです。しかも、中学校の英語の主任教師は鬱病で登校拒否につき、一週間受業なしの自習という非常事態で、正規の授業があっても、たかだか一週間に三コマとくりゃ、確かに、これでどうやって「話すことと、聞くこと」が学べるのかと言いたくなる。いや、これを「現場の教師」に言っても仕方がない。これこそ“制度”の問題だろう。「権力」は“ありすぎる”のも困りものだが、しかし、“ない”ということが一番怖いのです。その辺のバランス感覚が完全に麻痺してるから、「落日の朝日」とか言われちまうんだよ。
 それに比べて、「産経新聞」が掲載している「教育再生会議の委員経験者三人による採点」は短いが、読み応えがある。特に、河上亮一と藤田英典の厳しい批判は、「朝日」の感傷とは違う、「論理」のレベルで学ぶことが多かった。教育再生会議の報告書のみを“読み込む”ことで、そのテクストが孕む論理矛盾を指摘しているのだ。河上は「子供や保護者の立場にたった「自由化・個性化」(本来は高等教育の課題)」と、「基礎基本を徹底して自立した国民を育成する(規律訓練型の義務教育)」の並記を問題化し、そのどっちつかずの煮え切らなさが、逆に現場に混乱をもたらすことを指摘する。一方、藤田は「徳育」などで規範意識が向上するわけがない「常識」を述べて後、「社会総がかりでの子育て」という理念(競争の前提となる共同性の問題)と、「学校選択制」の理念(市場の競争原理)の論理的矛盾、学校範囲のいじめと少年犯罪との混同などを批判している。確かに「上」で纏まってない物が「下」に来て、良くなるわけがない。問題は「上=権力」VS「下=現場」ではなく、飽くまでも論理的一貫性なのです。「信念」を戦わすなどという高級な振る舞いは、その後で充分だ。
 それにしても、昔は「教育論」などという不潔なことだけはするまいと思っていたのだが、つい筆が滑ってしまう歳になってしまったのか・・・・。