ブニュエル・文庫・新年会

daily-komagome2008-01-31

 日曜日の夜は、シバノと『幻影は市電に乗って旅をする』(ルイス・ブニュエル監督/1953年・メキシコ/83min)を観る。メキシコ時代のブニュエルの滋味深い佳品。「“間=ズレ”の加速の果てに、もはや修正不可能な傷=深淵が露呈する過程」を描く“悲劇”に比べ、「“間=ズレ”の加速の果てに、いつの間にかそのズレが元通りに修正されている」という“喜劇”の持ち味は、その「修正可能性」を前提として荒唐無稽にまで拡大されたズレの可笑しさにこそある。その意味で、スラップ・スティックのドタバタ劇が、不条理なシュールレアリズムに近づいてしまうのには何の不思議もない。ブニュエルを「シュール・レアリズム」だけで捉えると間違えてしまうのは、多分、このスペイン的土俗(=カトリック)の笑いを引きずった喜劇性によるのだろう。いや逆に、元々キートンなどのハリウッド・ドタバタ喜劇のファンだったブニュエルが、たまたまフランスでシュールレアリズムに出会ったのと同じように、20世紀初頭に現れた喜劇精神の方が、たまたまフランスに転がっていたシュールレアリズムという名前を拾ってみた程度のことなんだろう。ラブレー然り、シェイクスピア然り、落語然り、要するに喜劇の方が過激なのだ。
 そういえば、中村光夫が「笑いの喪失」(『二十世紀の小説』角川文庫・昭和27年)というエッセイの中で、「自我」を中心化した近代文学が喪失した最大のものこそ「笑い」だったとして、深刻ぶった「日本近代文学自然主義」への批判を展開していたっけ。だとすれば、元々“非=近代”的である「笑い」は、結局“反=近代”を目論んで深刻から脱し切れない「シュールレアリズム」なんかよりずっと大きいということになる。そしてもちろん、この「笑い」の背後には、空間的、時間的に“明かし得ぬ共同体”が横たわっている訳だが・・・。
 月曜日は、師匠を囲んでの遅い新年会のため池袋へ。少し早く家を出て、ジュンク堂へ。ちくま学芸文庫のリクエスト復刊(http://www.chikumashobo.co.jp/special/gakugeifukkan/)はまだ出ていないよなぁ〜とチェックするためだったのだが、やっぱりまだみたいで、仕方がなく嫁と他の文庫を買う。

 大正期の作家・芸術家を主題とした池袋本に加え、ベンヤミンボードレール論と、奇しくも「遊歩者」「ボエーム(ボヘミヤン)」を主題とした、都市=近代ものの本二冊となった。ずっしりと重い『池袋モンパルナス』500頁も読み応えがありそうだが、浅井健二郎の翻訳+訳注も素晴らしい。読者がいることを考えていないとしか思えないベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』や『ドイツ悲劇の根源』のクネクネした抽象記述など、浅井によるあの詳細な注記がなければどこまで理解できたか怪しいものだ。で、この度も浅井健二郎の編集方針の下に翻訳された「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(久保哲司・訳)の注記は読み応えがあった。ただ、読解力のほぼ皆無な学部一年の時に読んで(って既に10年前か・・・)、「だから?」と思わせたベンヤミンが、今になって痛いほど浸みてくるというのは、単に翻訳の問題だけでない気もするが・・・・。
 新年会の方は、夕方6時から始まったものの、久しぶりに先輩連が多数集まり盛り上がったこともあってか、結局帰れずじまい。それで先輩とマッチーを連れてからカワサキ家に押し掛けて、結局朝までコース。本当、毎度お世話になります。