カルスタの嫌らしさ

daily-komagome2008-01-26

 最近、風邪と論文と受験対策が重なってなかなか更新できなかった。しかし、この分だと、多分今まで以上に論文にパワーを使うからそのうちブログはほとんど書けなくなるかもしれないなぁ・・・ただ、今はまだ余裕がある。
 ということで一昨日は、自転車で谷根千方面へ。古書ほうろうで4冊。

 それにしても山田登世子の『メディア都市パリ』って題名は誤解を与えはしないか。だって中身は“メディア論”でも“都市論”でもないんだもの。少し軽薄だけど、よく纏まった「近代=小説論」になっている。個人的には、阿部良雄の『群衆の中の芸術家−ボードレールと十九世紀フランス絵画』(中公文庫→ちくま学芸文庫)や、鹿島茂の『パリの王様たち』(文春文庫・絶版)なんかの系譜に棹さすフランス本として楽しんだ。ただ、生意気言うと、ベンヤミンの使い方や、「ロマン主義」の理解は甘い。初版が1991年だから仕方がないのかも知れないけど・・・。
 で、今日は、午後に殿上湯で昼風呂の後、地元の古本屋を回って4冊。

 フィリップ・ジュリアンの古典的象徴主義論は、復刊された新装版に本屋で出会う度に、欲しいなぁと思って指をくわえて見ていたのだが、今日はその旧装版に古本でお目にかかれたという次第。2200円と安かったのに加え、嫁が折半してくれるとのことでやっと購入できた。ありがたい。
 デザインに於ける象徴主義=世紀末芸術を論じた海野弘の処女作『アール・ヌーボーの世界』(中公文庫)の驥尾に付して言えば、19世紀世紀末芸術に全ての現代アートの源泉があるとの意見に基本的に賛成なのだけど、それを言うのなら、あのハンス・H・ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(美術出版社)の扉絵が、正しくドイツのオットー・ルンゲ「朝」(1808−右上画像)であるように、コンセプト自体は実は遠く18世紀末のドイツ浪漫派に起源すると見た方がいい。バーリンフーコーも言うように、モダン=現代アートの概念はそれ以前には遡行できないはずだ。と言うことは、現在に於いてもカントの『判断力批判』の「反省的距離の担保=鑑賞」による「形式化」という論理が、近代美学の原理的規範たらざるを得ないということでもある。いや、本音を言うのなら、だからこそモダンアートには自己嫌悪にも似た割り切れ無さ感じてしまうのだけど・・・・。
 その意味で、山田登世子の「近代=小説論」は少し浮き足立っているんだろうな。あたかも自分だけが「近代=文学の神話」から抜け出ているたような語り口に付随する脳天気さは、例え80年代ポストモダニズムを引きずっている事実を差し引いても、やはり無責任に響いてくる。別に“左”がかっていなくとも同じだ。カル・スタの“制度分析=批判”の嫌らしさは、常に、その淀みない論理を支えている“外からの俯瞰”に起因している。