「物質」としての新聞。

daily-komagome2008-01-24

 最近、朝食後、珈琲を片手に新聞を隈なく読むのが、何よりの楽しみになってきている。読みながら気になった記事を切り抜き、文章に赤線とコメントを添え、日時を記し、自分のファイルに収める作業がなんとも心を落ち着かせるのである。新聞代月額2900円の元は十二分にとっておかなければならないという家計的要請もあるが、どうもそれだけじゃないみたい。やはり、紙面というものの物質性に起因する気がする・・・・。
 全く同じ文章でも、単なる情報に還元されたかのようなネットニュースで“眺める”のとは手応えが全く違うのである。ネットでは、ただ毎日のように生成変化しただ過ぎゆく情報はあるものの、優先度の濃淡もなく、囲みや棒線や矢印が記せないから、例えば「正論」の様な少し長い論理=主張を精密に追うことが出来ない。すると自然と感覚は、「ああ、いつもの権力闘争ね」「また、やってらぁ・・・」という“シニカルな諦め”の中へ埋没して行き(この感覚も時には必要なのだけど)、結局、重要な意思決定の場面で“なんとなくな記憶=イメージ”が優先することに。それに比べ、棒線を引けコメントも付せてファイリングすることさえできる新聞となると、それぞれの論者の固有名詞を含めて手元に参照可能な“証拠”が残っていく感触が確実にある。すると不思議なことに、状況に対する不鮮明なイメージや不安感が、ほんの少しだけ軽減されているかのような感覚(錯覚?)に立ち至るのである。もちろん、それでも状況への一喜一憂は相変わらずなのだけど・・・・。
 軽々しく道路特定財源暫定税率の引き下げ(=ガソリン税の25円値下げ)に踏み切ろうとする民主党ポピュリズムや、言うことのコロコロ変わる小沢一郎の“政局主義”に苛立ち、しかし、安部内閣が崩壊するのを待っていたかのように湧いて出た「人権擁護法案」などというクソみたいな法案(共産党さえ反対している)に煮え切らない福田康夫の“調整主義”にも納得がいかず、サブプライムショックと石油高に円高が絡んでのインフレ不景気の嫌な予感に身震いし、果ては、どうでもいいセンター試験現代社会」に載った、そこらのバカな“サブ・カル研究者”が出題したとしか思えない「対抗文化(=カウンター・カルチャー)」についての色がかった問題にさえ憤るといった不体裁。でもって国際情勢で言えば、例えばロシア・プーチン帝国の覇権主義(実は彼が、87年にサンクトペテルブルク鉱山大学に提出した准博士論文における国家資本主義の政策そのままらしい)に怖気立ち、韓国の次期大統領が季明博に決定して以降、国家情報院のトップ金万福が情報リークの背任で辞任し、「南北統一省」の廃止や、「親日反民族行為真相糾明委員会」「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」などの左翼分子の溜まり場(=利権の温床)の一掃など、思い切った行政改革が明らかになるに及んで、「やっと、これで常識で話し合える場が出来たか」と胸をなで下ろすといった具合だ。
 それにしても、この“情報=物質”への執着は、やはり手元に古本を置いておくという感情に繋がっているんだろう・・・・。つくづく、変えようにも変えられない抵抗感を持つが故に、依拠すべき基軸にもなりうるという“物質”を舐めてはいけませんな。
 ということで、昨日の収穫二冊。

 でもって、仕事もいよいよ佳境に入ってきた。あと一か月が受験の山だ。