野暮ったくも、書きすぎた。

daily-komagome2008-01-18

 午前のうちに『エスター・カーン めざめの時』(アルノー・デプレシャン監督、アーサー・シモンズ原作/2000年・仏+英/145min)を観る。現代劇『そして僕は恋をする』('96)以来のデプレシャン映画だが、今度は19世紀末イギリスを舞台とした女優誕生物語。豪華なコスチュームプレイを背景にしながら、しかし人物造形がくっきりとシンプルに浮かび上がる描き方は、さすが!と唸ってしまった。19世紀イギリスの世紀末象徴主義を支えたアーサー・シモンズの原作(『エスター・カーン』平凡社ライブラリー)では、閉ざされたユダヤ社会からの脱出=自己獲得の喜びと、失恋=他者喪失を経て、より自立した強い女=女優へと成長するといった、旧いフェミニストが喜びそうな直線的なビルディング・ロマンス仕立てなのだが、21世紀デプレシャン版の『エスター・カーン』は原作をほとんど改変することなく、しかし細かい演出の解釈のみでシモンズの原作とは全く違う女優誕生物語を描いてみせた。つまり、ユダヤ社会や家族からの疎外に耐えるべく「自己」を固い殻の内に閉じこめてしまった一人の女性が、その「意思」なき透明な主体故に、成長してからは、自己の内に「演技」を「自然」に招き入れることの出来る女優として成功しながら、しかし後に、逆に自己の周りに張り巡らした固い殻=他者への不感症に悩むといった循環的過程を丁寧にドラマ化しているのだ。その過程で、不感症を打ち破らんとして打算的に選んだ男との関係の内に、知らず他者への情念を育てあげてしまって時、感情を死滅させて自立=孤立していたはずの女優は、しかし、身を割くような喪失=失恋の暴力的悲しみを身に受けることで、“事後的”に「他者=自己」を実感として獲得するといったジグザグ歩行が浮かび上がってくるというわけ。要するに、シモンズの直線的に描かれた「近代的個我」の完成物語が、デプレシャンでは逆に、固く閉じこめられた「近代的個我」の他者への打開といった成熟物語に仕上がっているのである。江藤淳的に言えば「喪失と成熟」のといったところか。久しぶりに、“シンプルなのに繊細”というトリフォーやロメール直系の佳作に出会った感じだ。
 午後、駅前まで散歩。平和堂で二冊。

 お茶をしながら『バビロンに帰る』を読む。で、夕方頃出勤。
 仕事からの帰路、折良くカワサキから電話があって、今からフィッツジェラルド会でもやらないかとのこと。採り上げるのは『マイ・ロスト・シティー』(中公文庫)。で、遅い夕食を伴いながら、二人で深夜の1,2時間をフィッツジェラルドを語ることに費やす。
 フィッツジェラルドの読後感を一発批評で済ませておけば、それは1920年アメリカにおける痛々しい「喪失と成熟」の記憶である。人々はニューヨークの「記憶のない現在」を埋め合わせようと焦る余り、華やかな「消費=快楽」に走るのだが、まさにその「快楽」が「快楽」でしかないために、抵抗感のある「生産」を介した他者との「絆=歴史(幸福)」を作ることは不可能で、故に、陶酔の後には、またしても「記憶喪失の現在」=空白を虚しく埋める摩天楼の廃墟だけが残されるといったアメリカならではの哀切感。否、フィツジェラルドの固有性は、その「消費=快楽」の“絶頂”で、シニカルな哀切感=喪失感を直感できるモラリストとしての感性にこそあったのだろう。
 春樹が1920年代のフィッツジェラルドを評して「一貫して無軌道」だったと書いているが、そのほとんど語義矛盾のような「一貫性」からは、身を以てして資本主義のデカダンスを底の底まで味わい尽くすことで、その「無際限な快楽」を見切り、イデオロギーに自己を預けることなく「消費=快楽」から癒えようとするフィッツジェラルドの情念ともいえる迫力が伝わってくる。その意味では、完成したばかりのエンパイア・ステートビルからニューヨークの街を眼下に眺めたとき、無限とも思われた快楽の都が、実は限られた小さな土地でしかなく、その外には森が、見通すことのできない自然が拡がっている事実に安堵を見出すフィッジェラルドの態度は、やはり「自己より大いなるもの」に祈ってきたアメリカ文学伝来のナチュラリズムにさえ繋がっているのだとさえ感じさせる。“制度・因習からの自由=外”に夢を賭けられたヨーロッパ文学と比べて、“自由”自体が所与の前提(=内)でしかないアメリカでは、逆に“内”を限定する「より大いなるもの」への渇望=祈りは必至なのである。
 その点、作家になる以前に村上春樹が20回は繰り返し読んだという『バビロンに帰る』は、世界大恐慌後の1931年に書かれたというだけあって、「成熟」へ向けて一歩踏み出したフィッツジェラルドの輪郭=祈りがくっきり浮かび上がっていて感動的である。「快楽」の“消えない傷痕”を抱えながら、しかし、一歩一歩と「日常・生活」の中へ帰っていこうと努力する主人公チャーリー・ウェールズの姿は、そのまま他者との間に日常的=散文的時間を積み重ねることでやっと手に入れることの出来る「絆=幸福」の手触りを一生懸命に繋ぎ止めようとするフィッツジェラルドの祈りの姿そのものである。やはり『バビロンに帰る』は、「自由=快楽の絶頂」を知っているからこそ、引き受けるに値する「不自由=忍耐」を学ぶことのできる男の物語として、フィッジエラルドの数ある短篇群の中でも鮮明な印象を与えてくれる。

 今日は『エスター・カーン』にしても、フィッツジェラルドにしても、奇しくも「成熟と喪失」をめぐってしまった。