末広亭・正月二之席 

daily-komagome2008-01-14

 久しぶりに夫婦揃っての休日。自分は冬期講習から普通授業への接続のために8日間連続講義だったし、嫁も嫁でご苦労なことに9日間連続のお勤め。それでも、隣には一ヶ月休み無しという驚異の編集者もいるので、この程度で愚痴を言えるはずもないのだが・・・・。
 ただ、せっかく夫婦揃っての休日なので、先日カワサキから教えてもらった末広亭の「寿正月二之席」にでも出掛けようと、昼過ぎから新宿に向かう。しかし、さすがに正月二之席!満員御礼で立ち見まで出る大盛況。それもそのはず、そのラインナップが凄すぎる!
 昼の部を、柳家花禄、三遊亭圓花(昼主任)と爆笑で締めくくって後、引き続いて夜の部は三遊亭圓丈あたりから場内が温まりだし、柳家権太楼、三遊亭金馬昭和のいる・こいる橘家圓蔵で一気に爆笑を誘い、仲入りで少し息を整えて後、春風亭一朝古今亭志ん駒、林屋正楽とトン、トン、トンと軽いウォーミングアップ。で、トリを柳家小三治のサラリ端正な落語で静かに〆るという信じられない豪華さ。これでたったの3000円。これをホール落語でするなら1万円は下らないのじゃないか?
 しかし、料金が云々とケチな話がしたい訳じゃない。ただ正月早々、末広亭の空間を満たした「落語」が素晴らしかったのだ。やはりホール落語とは何かが違う。寄席の雰囲気もさることながら、演者の客に向かうその“態度”がホール落語とは決定的に違うのだ。落語家にしても色ものにしても、数並ぶ演目の中で上手い演者ばかりじゃ逆に疲れる。で、時に下手な出し物も織り込みながら、しかし、演目“全体”の中で観ればそれもまた味になっているといった感じか。だから、客は「特定の落語家の、特定の演目(=作品・表現)」を対象に鑑賞するというよりも、その寄席の“全体(=場)”に身を浸しに行くと言った方が正しい。一方、演者も演者でそれを分かっているから、自然に「自分の座り位置(=場)」に謙譲を示すことが出来るのだろう。それで、客と演者は、その“場”を媒介にして“息が合う”という幸福感を分かち持つことが出来るというてわけ。しかし、それを手前の野暮な言葉で分析するよりも、ここは末広亭の元席主・北村銀太郎の「ホールと違つて寄席は完成品を売るところじゃない、こしらへながら売るところなんだ」という鋭い言葉に耳を傾けようじゃないか。

ホールってのは、あれ、学校の教室みたいなところだよ。しかし、落語というのはまったくの大衆を前にしての芸なんだからね、そりやあ寄席でやる方が難しい。ホールのお客は初めつからそれを聞きにきてる人なんだから、多少のことがあつても聞いてもらえるだろうけど、寄席のお客はそうじゃない、暇だから入ってきた、通りすがりにちよとつとのぞいてみたつて人が多い。義理だの、前もっての知識だの、なにもない。だから、そのぶん正直なんだ。つまらない落語なら退屈して堂々とあくびをするし、席もたつてしまふ。(中略)落語というのは普段着のまんま喋れるやうになつてなきやなんないんだよ。変に居住ゐを正して高座に上がって、俗に通人と呼ばれるやうな人たちだけを相手にしてゐちやね、まるで教室で講義してるやうになつちやふ。これはもう芸人らしさは失はれていくし、落語芸の特徴も消えてゆくで、ちよつとつまらない方にいつちまつたりしかねないわけだ。
 高座で一席やることは落語の発表会じやないんだからね。それが、その晩一晩だけの高座となると、やつぱり裃をつけた気分にもなるよ、そりやあね。寄席のやうに毎晩毎晩やるとなると、そこに軽い気持ちでやれるような雰囲気が出てくるわけだよ。」(席主北村銀太郎述『聞書き・寄席末広亭』少年社、1980・7)

 素晴らしい本を貸してくれてありがとう、カワサキ君!