昔の新書

daily-komagome2008-01-12

 起床後、家事をこなして後、読書。午後、商店街にメンチカツを買いにいくついでに、また古本屋まで足をのばしてしまう。そこで、新書三冊を拾う。

 実は、二冊の絶版新書はどちらも再購入。“名著なのに絶版”という兼価本は何度拾っても損はない。友人へのプレゼントにもなるしね・・・。特に、近代の幕開け=ルネサンスという時代の、文字通り「偉大と頽廃」を教えてもらった清水純一の本はこれで三冊目。
 それにしても岩淵、清水の本にしてもそうだが、昔の新書の読み応えには常々驚く。そういえば、未だ“左畜”の跋扈甚だしい80年代、あの呉智英が、論争相手の「バカ」の一人である岡庭昇から、「新書知識人」と雑言を投げられたことがあったけど(呉智英『バカにつける薬』参照)、しかし本当に新書を読み込んで血肉化しているのなら、これ以上の褒め言葉もないものだ。だって岩波新書の青・黄色版に限っても、丸山真男『「文明論之概略」を読む 上・中・下』や、島田虔次『朱子学陽明学』、福田歓一『近代の政治思想』『近代民主主義とその展望』、川島武宜『日本人の法意識』、野田又夫デカルト』、佐々木毅『近代政治思想の誕生』などなど、そのまま“ちくま学芸文庫”に収まってもおかしくないラインナップが思い浮かぶし、より渋い中公新書まで含めたら、それこそ碩学の名に値するのだろう宮崎市定の『科挙』や、高階秀爾の『フィレンツェ』に始まって、源了圓『徳川思想小史』や、つい先ほど実際に“ちくま学芸文庫”に収められた間宮陽介『ケインズハイエク』など、その名著群は枚挙に暇がないだろう。そういえば、先日無理して買ったブルクハルトの『コンスタンティヌス大帝の時代』(1853)の序文にも、「著者は本書を特に学術研究者のために書いたのではなく、むしろあらゆる階級の思考する読者のために書いたのであった。」との一文があったっけ。それこそ“昔の新書”の精神だったんだろう。あの、世紀の碩学ブルクハルトの処女作にしてこの態度なんだから、逆にアカデミズムでしか通用しない気どった「学術書」ばかり書いている「研究者」こそ、きっとウスノロ馬鹿に決まっている。
 帰宅して後、メンチカツを食っているところへ、カワサキ来訪。太宰の『お伽草紙』(新潮文庫)をネタに文学話。個人的には、アイロニカルな解釈が施されている「お伽草子」の連作より、鴎外の歴史小説や落語の手触りがある「新釈諸国噺」(西鶴の翻案モノ)の方が圧倒的に好き。しかし、『お伽草子』など、太宰の中期傑作を読むにつけ、「太宰治人間失格」という“イメージ”は、いい加減、そろそろ払拭してもいいのではないかと思ってしまう(だいたい『人間失格』はとっても上手い“メタフィクション”のはずなんですけどね・・・・)。そして最後は何故か、一度はアメリカ文学特集をやっとくかという話に傾き、次回はフィッツジェラルド村上春樹訳『マイ・ロスト・シティ』(中公文庫)を採り上げることに。しかし、文学話に付き合ってくれるのが、娑婆で働く映像クリエーターだというのも不思議な話だ。
 その後、仕事へ。12時前に帰宅。