「銭湯」と「二階」の長閑さ

daily-komagome2007-12-21

 今日は、休みの嫁が実家に帰るというので、見送って後、家事もせずに呆けて読書。岡本綺堂『風俗 明治東京物語』(河出文庫)を読み進める。この手の風俗回顧本では、必ず「銭湯」と「寄席」の頁から目を走らせる。何が何だか分からないくらいに変化してしまった現在の東京の風景だが、それでもぎりぎり、今生きられている地平と地続きで、リアリティが担保できる風俗といえば「銭湯」と「寄席」くらいだからだ。いや、それでも違いすぎるほどに違うのだけど・・・。
 しかし、「銭湯」といえば必ず思い出すのが『小出楢重随筆集』(岩波文庫)の「入湯戯画」の味わい深さだ。全文引用したいほどだが、ほんの一部をご紹介。

太陽の光が湯ぶねに落ちている昼ごろ、誰一人客のいない、がらんとした風呂で一人、ちゃぶちゃぶと湯を楽しんでいるのは長閑なことである。
 しかしながら、私はまた夜の仕舞風呂の混雑を愛する。朝風呂の新湯の感触がトゲトゲしいのに反して、仕舞風呂の湯の軟かさは格別である。湯は垢と幾分かの小僧たちの小便と、塵埃(じんあい)と黴菌(ばいきん)とのポタージュである。穢ないと言えば穢ないが、その感触は、朝湯のコンソメよりもすてがたい味を持っている。その混雑は私にとって不愉快だが、私の頭の上に他人の尻の大写しが重ねられたりする事も風情ある出来事である。そしてそれらは西洋人にはちょっと諒解出来難い風情である。

 さすが、大阪人。この感性で、大正期にヨーロッパ旅行を敢行したモダンな洋画家ってんだから驚くね。あの近代=西洋主義者特有の選民意識・焦燥感じゃ、この湯屋の長閑さは絶対に描けない。
 ちなみに、岡本綺堂によれば、明治の東京の湯屋の二階には、ほとんどの場合「白粉臭い女が控えていて、二階に上がった客はそこで新聞を読み、将棋を指し、ラムネを飲み、麦湯を飲み、菓子を食ったりしていた」そうな。「二階」と言えば、本郷の白山にあった伝説の本屋「南天堂」の二階喫茶店(今も白山坂上に健在だけど、もう二階はない)、また、ついこの間まで古老が陣取っていた三茶書房の二階資料室(今じゃもう、二階へは行けない)などを思い出すが、あの「二階」特有の長閑さは、今じゃ随分少なくなったのだろう。

 午後、自転車に乗って千駄木方面へ。“古書ほうろう”で4冊。

 『樋口一葉 小説集』の編集の素晴らしさは特記するに値するのだが、また機会があれば。
 今日の仕事は2コマのみなので、6時過ぎになってから出掛ける。しかし、いよいよ地獄の冬期講習が始まる。イヤなのは生徒だけじゃない・・・。