祝『福田恆存評論集』刊行!+付言
基本的に、古本を買った日にだけ備忘のためもあって日記を書くことにしているのだが、病気のため、ここ二週間ほど完全に本を買うリズムが狂った。すると、わざわざ足を運んだ映画の記録さえ億劫になって結局備忘さえ書かずじまい。そのままフェイド・アウトしても良かったのだろうし、それで何の問題もないのだけど、しかし、日常の些事を言葉にする作業は、案外そこから自分の考えていることがはっきりすることが多く、それがなくなるのは個人的には少し寂しい。「言葉」というのは、それを使う人以上に「筋」が通っているもので、自分などは、その「型」に依存することで辛うじて「己の輪郭」を確認しているようなものだ。ということで、やはり書いていきましょう。
目に付いた、ここ数日の本
- 『散歩の達人−谷中・千駄木・根津−(2007・10)』
- 『東京人−神保町の歩き方2008年度版』
- 坪内祐三『文庫本福袋』(文春文庫)
- 大庭萱朗・編『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ3―交友』(ちくま文庫)
- 岡本綺堂『風俗 明治東京物語』(河出文庫)
- 『福田恆存評論集 第八巻 教育の普及は浮薄の普及なり』(麗澤大学出版会)
まだ、古本の勘が戻らないが、出だしはまぁまぁ。特記したいのは、ある点では快挙であるはずの『福田恆存評論集』の微妙さ。
というのは、もちろん今時『評論集』を出した麗澤大学出版会には拍手喝采なのだけど、しかし、これが定本を『全集』においた単なる普及本にすぎないのです。今になってわざわざ『評論集』を編むのなら、それなりの覚悟で編集委員を置き、多くの『全集』未収録文も収録してほしかった。いや別に、訳知り顔で研究者面したいわけじゃない。単なる『普及本』でも構わない…本当に普及する気なら。でも、「解説」も「月報」も「年譜」もないんじゃ、「知っている人は知っている、知らない人はそれまでよ」といった感じで、普及さえおぼつかないじゃないか。これならまだ、講談社文芸文庫の『福田恆存文芸論集』の方が普及の面では数倍貢献するだろう。
しかもこの『評論集』、未だに福田恆存を保守論壇の神棚=古典に祭り上げておこうという魂胆が透けて見える。というのも、福田自身がそんなに重視していなかった時事政論を最初に配本して、『藝術とは何か』『人間この劇的なるもの』『西欧作家論』『作家の態度』など、福田の本質を知る上で最も重要かつ重厚な初期論考が一番最後の配本なのだ。しかも、第一回配本の『評論集 第八巻』の副題を「教育の普及は浮薄の普及なり」とするのはダサすぎはしないか。だって、これって福田が援用した斉藤緑雨の格言そのままですからね。別に、斉藤緑雨がダサいというのではない。時代の経緯を顧慮せず、誤解を与える形でそのまま『福田恆存評論集』第一回配本の題名にすることがダサいのだ。それは福田自身が、『言葉・言葉・言葉』というシェイクスピア張りの題名を望んでいたらしい最後の語録を、勝手に『日本への遺言』(文春文庫)と題して編集することのダサさと通じ合っている。
編集者が別に若い世代に媚びる必要はないのだけど(というかまだ自身が20代だった・・・)、今こそ福田恆存が読まれるべき状況を少しでもよりよく設定すべきではないのか。ドゥルーズよりもデリダよりもニーチェよりも新しく、福田和也・坪内祐三よりラディカルで、内田樹よりも面白い。もちろん柄谷・浅田の『批評空間』など目じゃない(といいつつ、柄谷は福田恆存を物凄く評価していて、実は追悼文も書いているんだけどね・・・)。個人的には、福田恆存との出会いは、小林秀雄やハイデガーと同じか、それ以上のインパクトだった。いや、逆に福田から見かえして、小林やハイデガーがよりよく理解できたと言った方がいい。団塊バカや、全共闘偽善世代が後退し、バブル浮かれ騒ぎ組が落ち着いてきて、やっと「近代」が黄昏れてきたた今こそ、福田の言葉は眼から鱗なんだけどなぁ・・・その証拠に、あのカワサキも「福田恆存を読んで初めて、文芸評論の味を知った」と、ついこの間言っていました。あんまり説得力ないか・・・・?