何もしなくていい休日−松下正己と音楽−

daily-komagome2007-12-04

 昼すぎに自転車で谷・根・千方面に足を延ばし、“古書ほうろう”へ。そこで、久しぶりに映画本を二冊。

  • 僕らはカルチャー探偵団・編『映画の快楽・ジャンル別洋画ベスト700』(角川文庫)
  • 松下正己『映画機械学序説』(青弓社

 松下正己は、日芸中退で、うちの師匠の兄貴筋。しかも、内田樹の中学時代からの友人で、内田との共著(『映画は死んだ』いなほ書房)も持っているという不思議な人。60年代初頭、SFFC(SFファンズ・クラブ=禁制SFを読み、同人誌を出版する)という地下組織が存在したとのことだが、既に松下はそこの会員間で伝説と化していたらしい。内田の言葉をそのまま引くと「中学一年生で会の創設に参加し、古今のSFを読破し、ヒトラーとサドに傾倒し、その処女作『蝗(いなご)身重く横たわる』はノルマンディー上陸作戦の前夜のドイツ国防軍カイテル元帥の暗いつぶやきから始まる大長編SFで、SFFC叢書の劈頭を飾る単行本としての出版が予定されている天才少年」であったそうである。その後の詳細は知らないが、昔日の日芸アヴァンギャルドを支え、学生時代に撮った実験映画『眼球空間』(1971年/アンダーグラウンド・シネマ・テーク、未見)は若き日のうちの師匠を魅了し、日本アヴァンギャルド映画史の伝説と化しているといった情報まではなんとか記憶している。また「映画的快楽」へ向かって迫る文章は、蓮実重彦(=映画の記憶派)や、松本俊夫(=映像の意味派)などとも異なって面白い。『映画は死んだ』もまだ途中なので、正月にでも腰を据えて読んでみよう。
 帰宅して後、延々と大瀧詠一山下達郎細野晴臣などのレンタルCDをCDRに焼き付けながら、寝ころんで本を読む。それにしても音楽を聞いていると、山下達郎の多声メロディ+細野晴臣のポップ=大瀧詠一のリミックスという等式が頭に浮かんでくる。別にだからといって、大瀧が一番良いというわけではないのだけど、例えばアルバム『A LONG VACATION』はどうしても達郎のメロディを想起してしまうし、アルバム『大瀧詠一』のポップはあまりに“はっぴいえんど”を引きずっている。それが『ゴーゴー・ナイアガラ』や『ナイアガラ・カレンダー』になると、達郎テイストと細野テイストが交互に折り重なって、この音楽音痴な小生さえをも、えも言われぬ心地よさへ連れ去ってしまうのである。大瀧詠一も愛読しているという小林信彦の言葉を借りれば、これぞ、「エンターテイメント=もてなし精神」といった感じか。
 そう考えると、必ず閉塞する「自己への誠実」(→ジャンルへの誠実=モダニズム=全ての還元的実験音楽)の「不自由」と対照的に、「もてなしの精神」の異様な「自在さ」が浮かび上がってくる。確かに「もてなしの精神」は、必然的に、その「自己と他者」との「場」を包むメロディとリズムの周期性=型に依存せざるを得ない。が、その不自由で不純であるはずの「型」(=リズム&メロディ)との付き合いにこそ、「自己への誠実」と「他者への誠実」を媒介する「作家としての誠実」が生まれることになるのである。その意味じゃ、この三人は共に「作家としての誠実」に忠実だ。新機軸を打ち出すなどという衒いも、「純粋なジャンル=自己追求」といった傲慢な甘えも皆無ながら、いや、この三者においてはリズムとメロディを介した「もてなしの型」が強固に確立されているが故に、少々の実験(=自己追求)をも、その作家の必然においてリスナーと共有することが可能となるのだろう。これこそ「自由=自在」と言わずして何という。今更、フリー・ジャズの雑音(自由=閉塞)など聴いてられるか。