新聞を取る

 一人暮らしの時に「朝日」や「毎日」あたりを取っていたことがあったが、あまりに内容=読みのない「情報」や「よい子の意見」だけで呆れかえり、これならネット・ニュースでいいやと、新聞を止めて以来、これまでずっと週刊誌とネットニュースで過ごしてきた。が、この度、再度新聞を、しかも「産経新聞」を取ることに決めました。
 これまでも、ほぼ毎週、重要トピックに限り「朝日」と「産経」の切り抜きを師匠がコピーしてきてくれて、それを読んで済ませてきたのだが、さすがにこれ以上師匠に迷惑をかけるわけにもいくまい。しかも、最近、その切り抜き「産経新聞」の面白さには目を見張る物がある。これなら、むずむずと全紙面チェックの願望も湧いてきて、新聞購読したくなると言うもの。
 まず、「産経新聞」の「社説」は、客観性など装うことなどなく、潔くその名も「主張」ですからね。他紙とは根性の入り方が違うんです。でもって、その紙面で、例の「沖縄教科書抗議集会11万人参加」という主催者側発表を鵜呑みしてプロパガンダした「朝日」や「NHK」報道の実地検証にいち早くのりだし、結局、航空写真その他の計測ではおよそ1万8000人〜2万の参加(関係者証言で多くても4万3000人)だった事実を暴露。しかも、沖縄県民の参加に加え、本島からの左まき関係の人員狩り出しでやっと2万という数字を達成した経緯も描いて見せた。あの呉智英をして「これは単なる計測制精度の問題ではない。論理の整合性の問題である。だって、戦時中の大本営発表を嘲弄してきた自分たちが同じことをしていたらまずかろう。南京事件の犠牲者の数をごまかすなと主張してきた自分たちが参加者の数をごまかしたら厚顔無恥というものではないか。沖縄戦の犠牲の真相を隠蔽するなという抗議集会で自らの参加者数の真相を隠蔽していたら説得力はゼロだ。」と言わしめ、コラム「産経抄」では、記者が「江藤淳先生が生前、指摘された「閉ざされた言語空間」がなおさ存在するようです。主催者発表通りに集会の規模を2.5倍も誇大に報道する姿勢は、戦時中に大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます。そうそう、貴紙は論調の異なる読売、日経とネット事業や販売部門で提携されるそうですね。思い切った決断に拍手を送りますが、新聞でもネットでも事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく。」と、皮肉を交えた余裕のコメント。なんて、お洒落な「新聞」なんでしよ。はほとんど週刊・月刊紙レベルに達したこの“自由度”には、久しぶりに感心してしまいました。
 今、問題になっている政治ネタ(例えば「大江健三郎沖縄ノート』裁判」など)についてはその詳細をよく報道し、「正論」コーナーは論争的、アメリカ、中国、韓国との関係などについても「国際平和」などという「いい子」の抽象論に逃げずに、飽くまでリアルポリティックスに徹しようという報道姿勢は、単純に知りたいことを伝えてくれる。今度の、「教科書修正問題」にしても、「朝日」を読んでいる限り、何が問題なのかが伝わらないが、「産経」だと、左翼・保守派双方の意見が、その論拠も含めて良く分かる。要するに、戦後一貫してマイナー紙の位置づけで孤独に鍛えられた「産経」は、論争相手の論拠を吟味し、その欠点を限定的=理論的に崩す作業に慣れているが、戦後に甘えた「朝日」は感情論でよい子ぶる悪い癖が抜けきらないといったところか。俗情に媚び泣きついて、「空気」(山本七平)を醸成して部数を上げようという悪い癖だ。
 その意味で言うと、やっと部数が落ち込んできた「朝日」は迷走し始めましたね。演劇舞台に置かれた「巻き貝」を、前衛アートの破壊的な「うんこ」と勘違いして報道するは(爆笑した)、「帝国」の観点から“左まき”に都合のいいことを言ってもらおうとしたエマニュエル・トッド(『帝国以後』の著者)のインタヴィューでは、逆に「日本も核武装するべきだ」と言われてタジタジになってしまうし(苦笑)、未だに「天声人語」の大学入試の出題頻度を自慢しているし(あんたは、大人相手の新聞じゃないのか?しかも、その偏差値批判してきた張本人じゃないのか?・・・・ほとんど末期症状だな)。安倍が総理辞めて、福田康夫になったくらいで胸をなで下ろしているし(“革新左翼・進歩的知識人”の矜持はどこへ?)。「安倍る、アベる(=責任を放り投げる)」という、未だかつで聴いたこともない言葉を「最近、流行っている」と書いちゃうし(何の嫌がらせだよ!)。もう、これじゃ本当に師匠の言うとおり「落日の朝日」だ。でも、心配は要りません。こんな笑える新聞、誰が読まずにいられるものですか。個人的には、これからかも「朝日」さんとは末永くお付き合いしようと思っていますよ、「切り抜き」でよければ・・・。