翻訳小説

daily-komagome2007-11-21

 朝、嫁を見送って後、家事。その後、仕事の予習をして、自転車に乗って池袋に。
 履きすぎて、お尻のポッケの所に穴の空いた二本のズボンを見かねた嫁が、先日、遅れた誕生日プレゼントとしてユニクロ・ズボンを買ってくれたのだ。昨日は、その裾直し完成品を取りにいく。服を買う経験なんて、ここ1年くらいしてない気がする。
 帰路、ついでにジュンク堂や、古本屋によって二冊。

 田中美知太郎『ソクラテス』の古本は、いざ探そうとなると案外見付からないもので、やっと手に入れることが出来た。特に田中美知太郎による「エイロネイアー」(=ソクラテスアイロニー)の解説が目的。熟読吟味したい。サリンジャーは、加藤典洋敗戦後論』を読んで以来、やけに気になり出しているのだが、どうせ読み返すなら家にある野崎孝訳ではなく、最近久しぶりに読んだ村上春樹の文体でいこうといったところ。
 実際、帰宅後に野崎訳と村上訳を比較すると、やはり圧倒的に村上訳の方が読みやすい。名訳と謳われる野崎訳だが、例えば「僕」という一人称と、時に散見する「奴さん」という三人称は、今読むと少しアンバランスに響かないだろうか。要するに、成人男性の「私」や、青二才の「俺」ではなく、“未成熟だけど繊細”という記号性を孕んだ「僕」という一人称が、相手のことを「奴さん」という少々乱暴で投げやりな呼称、しかもほとんど口語としては聴かない言葉を使用するといった不自然にまず引っかかるのだ。でもって、語尾を「〜なんだな。」とやられると、その印象は「少年の柔らかい感受性」というよりは、少し「夜郎自大な気取り」の方に傾いてしまう。これら全てのポイントが、人称名詞が限定されており、語尾変化のない英語原文には直接問いただせない、テクスト解釈=日本語翻訳の問題だろう。しかし、その微細な語尾変化一つで小説世界の雰囲気は劇的に変わってしまう。それくらい、日本語は「詞」と「辞」の微妙なキアスム(絡み合い・織り物)で成り立っているということだ。もし、「世界に入り込めないが故に、遠くから世界を眺めてしまうシニカルな諦めと、故に、どこにも回収されない静かな寂しさ」をこそ青春小説の醍醐味とすれば、村上春樹のあの距離感覚=言語感覚は「僕」の世界にぴったりなキアスムだといった気がしてくる。
 午後、仕事へ。最近、通勤電車内でだが、やっと腰を据えて読み出したドストエフスキーカラマーゾフの兄弟 Ⅰ』(亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫)がやけに面白い。これも、代表的なドストエフスキー翻訳者三人(岩波文庫米川正夫訳(1927年訳)と、新潮文庫原卓也訳(1978年訳)と、今度の亀山郁夫訳(2006年訳))を比較すると、色々面白いことが分かるのだが、今日はサリンジャーだけでもう充分だ。それにしても、中学生の頃から『地下室の手記』『悪霊』『罪と罰』『白痴』とチビチビ読み進めて、この歳になってやっと『カラマーゾフの兄弟』に到達ですよ。が、やっぱり歳は取るに限るな。ドストエフスキー世界の見え方がまるで違う。例えば、「理屈」としては理解しているはずのバフチンの「ポリフォニー(多声性)」概念など、やっとミソジを前にして噛みしめる「宿命」(小林秀雄)の手応えとして掴み直すことを迫ってくるし、また、小林がゴッホを論じて「人生の実在」といった言葉がそのままドストエフスキーの手触りとして甦ってくる。しかし、ドストを論じるのはまだ早い。読了してからにしよう。