ザッツ・エンターテイメント・デイ

daily-komagome2007-11-12

 起床後、掃除・洗濯・食器洗い。
 昨夜舞い込んだ葉書で、夏に申し込んでいた共立女子大でやる学会発表が決定したことを知る。まぁ、もうこれを最後に学会アカデミズムとはおさらばするつもりだが、今回はやるしかないな・・・・。
 が、とはいってもいきなりは勉強に集中できない。いつまでたっても勉強に身が入らず、結局その逃げの姿勢に自己嫌悪を感じながら、カワサキから借りた本秀康のまんが『ワイルドマウンテン』を手にとって爆笑し、それに飽きると国枝枝郎『神州纐纈城』(講談社文庫)に読みふけるというありさま・・・・。
 で、いつの間にか夜になっていて気が付くと、シバノ来訪。で、一緒に『ゾディアック』(デヴィッド・フィンチャー監督/2006・ワーナー/157min)を鑑賞。しかし、これが今日の救いでしたね。久しぶりに、2時間40分の長さも忘れさせるくらいに面白い映画に出会った感じ。先週観た『パフューム』も二時間半と長かったが、今回は時間の問題ではなく内容として満腹になりました。
 ただ、しかし、賛否両論あるらしいね、この『ゾディアック』には。否定論の代表的なものとしては、『ゲーム』『ファイトクラブ』『パニックルーム』の息もつかせぬフィンチャー節を期待していったら、ただ結論が先延ばしにされてダラダラと引きずる沈滞感がなじめないという意見が一つと、『セブン』の様なクライム・サスペンスを期待していたら、殺人シーンや、犯人の世界観に迫るシーンはほとんどなく、ただただ警察とマスコミとの犯罪捜査・犯罪追跡ばかりが撮られていてノワール映画ぽくないと言った意見がもう一つ。
 が、個人的にはこの映画、探偵的手法で60年代末から70年代にかけてのアメリカという時代に迫りながら、しかし、その裏で「犯罪=真実」という「物語」の不可能性を描いた社会派サスペンスだと映った。その意味で、実は劇中にも登場する『ダーティ・ハリー』の21世紀的後継なのだと思われる。もちろん、『ゾディアック』には、既にハリー警部の様な超法規的な中心点は存在し得ないし、構成だって一時間半には収まらず、限りなく犯人に迫りながらも結局、その状況証拠の決定不可能性において逮捕には到らない。超法規的存在がそのまま正義に繋がり得たジョン・ウェイン的古典西部劇から、超法規的存在が既に暴力的なダーティ・ヒーローにしかなり得ないドン・シーゲル的近代映画へ。そして、いくらダーティな覚悟を身に帯びようと法を超えることさえままならず、いくら個人的な忍耐を中心化しても、このバラバラに断片化した世界=悪には追いつかないといったフィンチャー的「悪」の世界へ。別に、これは映画が進歩したという話ではない。ただ「正義」のリアリティの問題なのだ。「なんて、歯がゆいんだ!」と地団駄を踏みつつ、しかし、この感覚こそが日頃我々が身を浸している世界のリアリティなのだと納得させられる。しかもその「世界」は、犯罪を追跡する警察官、ジャーナリスト、漫画家と、「こちら側」の人生を少しずつ狂わせながら、その姿を次第に露わにしていくだろう。その「世界」に住む我々にとって「犯罪」とは、確固とした主体が発見し、問い糺し、追い詰める「対象」では既になく、もはや「こちら側」が突きつけられ、問い糺され、解体される「体験」でしかないのだ。つまり、既に「主体」は、この断片化した「世界」の方に移っているのである。果たして、『ゾディアック』は、その「物語の不可能」を上手く「物語」化したという一点で、記憶される映画となった。