登校日 

 午前に読書。太宰治「親友交歓」「十五年間」、坂口安吾「不良少年とキリスト」を熟読・読み合わせの後、小林信彦『面白い小説をみつけるために』に目を走らせる。
 昼すぎ、吉本隆明『言語にとって美とは何か』読書会のため大学へ。助教と二人だけで議論。まぁ、読書会自体は、原理的な言語論に学ぶと言うより、言語思想を通じて吉本隆明とは一体何者だったのかをこの際、徹底的にはっきりさせるといった趣が強い。実際、原理論なら、発生論を引きずっている『言語にとって美とは〜』より、時枝誠記国語学原論』や、福田恒存『私の国語教室』『批評家の手帳』の方が数倍上。ただ、文学者=吉本隆明を考える上で、「自己表出論」は興味深い。それは、サルトルの想像力論を引きずっている江藤淳『作家は行動する』の文体=言語論が、それでも江藤淳論を考える上で必須の本であるのと同じだ。
 ただ一点、現在進行形の問題に注意を促せるとすれば、イギリス日常言語学派(オースティン、サールなど)が焦点化する「事実確認的発言」は、国語学の「詞」(時枝)や「指示表出」(吉本)概念が担い、「行為遂行的発言」は、国語学の「辞」(時枝)や「自己表出」(吉本)概念が担うといったパラレルな関係性だろう。ただ、それさえも実は、時枝言語学が既に同時代(戦前)の、フッサール現象学ノエシスノエマの同起関係)や、西田哲学(「場」の理論)からの影響の中で、ソシュールの構造言語学を批判して「ゼロ記号」まで措定する言語論を構築していることを考えればそれほど驚くべき事態ではない。逆に言えば、今更ヴィトゲンシュタインとか言って騒ぐ前に、時枝言語学を学ぶべきだと言うことだ。それくらい戦前の「自分の頭で考えられた」言語論はレベルが高い。
 そういえば、『小林秀雄ウィトゲンシュタイン』とかいう、当たり前すぎて、読む前に内容の分かるような本も出たな・・・。
 読書会の後、近くの古本屋で三冊

 実は、『新選組血風録』くらいしか読んでいなかった司馬遼太郎だが、福田和也の『乃木希典』を読んで以来、このシバリョウの「坂の上の雲史観」を押さえないと、日本近代史好きなオヤジ達と話せないことが判明。今更ながら、無知の涙を雪がんとして古本を手に取る。中西輝政の本は第十章「『押し返す保守』の基軸」が目当て。が、やはり今度もダメだった。中西の本は昔からそうなんだけど、まず、この“硬直した保守”の余裕の無さが気質に合わない。この「価値」と「強さ」を混同する未来志向の姿勢が気に入らない。
 遅い昼食をとって、喫茶店で少しの珈琲タイム。その後仕事へ。
 12時前に帰宅。