筆が走った。 

 今日も11時頃仕事を終え、12時前に自宅マンションに辿り着く。帰宅際、郵便受けを覗くと、北海道の古本屋から注文した本が届いている。

 夜、TVニュースを見ながら夕食。参院与党という立場にまできて「国連中心主義」などという間抜けな妄想をしか紡げない小沢一郎の茶番劇に苛立つ。別にテロ特措法に反対するのは勝手にすればいい。が、その根拠が「国連中心主義」というのは解せない。それなら「アメリカのポチ」ならぬ「国連のポチ」でしかない。つまりほとんど「主体的判断をお上に預けた、思考停止の犬」であることには変わりがない。しかも、その当の「国連」自体が、実は「アメリカのポチ」でしかないなどということになれば、話はほとんどギャグの域に達している。
 もとより「国家主権」より「国連」を権限として上位に置くというのは、一体何の根拠があってのことなのか。「主権」概念が、「それより以上の権力の不可能」において定義されていることを知っての判断なのか。しかも、その時、小沢が主張するアフガンでの国際治安支援部隊(ISAF=戦闘活動の可能性あり)への参加は、何にその行動の「価値」を預けての活動となるのか。クリント・イートウッドは、われわれは「友のためになら戦える」が、抽象的な「平和」や「人類」のためには戦えないと言っている。いや、その抽象性で戦おうとする姿勢こそが、最も危うい全体戦争を帰結したことを覚えていないとは言わせない。だから、われわれは、われわれという境界線(経済的・感情的・政治的・言語的)のリアリティが担保できるぎりぎりの枠組みとして「国家主権」を統制的に使用せざるを得ないのではなかったか。もし、カルスタ左翼が言うように、その「国家」の統制的作用自体が擬制であるとすれば、擬制であって構わない。感情のリアリティが折り合わない擬制的共同体は早晩解体するだけだろう。その時は、独立戦争でもなんでもすればいい。にもかかわらず、われれわれの感情が行為遂行的(byオースティン)に生成されうる限り、われわれは、その目の前にある制度を利用せざるをえまい。果たして、それ以外に「この私」を支えうる手持ちの武器があるのか。
 誤解があるといけないから、アーレントという偉いおばさんの『全体主義の起源』の議論も想起しておこう。つまり、この国の“進歩的言説”は、ファシズム・ナチズム・天皇国家主義を、「ナショナリズム」の一語で一括りに批判できると思い込んでいるが、逆である。ファシズムは、その主権を、「国家」を“超”えて把持している限りで、「ナショナリズム」であるはずはなく、その名の通り「超国家主義」なのである。そして、その時、現在の「国家」を「超」える態度として最も類似してくるのが、未来の前衛「党」がそのまま「国家」を超えている「国際共産主義」であることは言うまでもない。従って、それらの「超国家主義(=左右を含めた全体主義)」に最も抵抗できるのは、「国家」を超えようとする「人類愛」ではなく、感情の限界をわきまえている「ナショナリスト」だけであることは明記しておきたい。
 本当は、こんなことを書く気は一切なかったんだけど、たまたま小沢に言及してしまったが故に、今日も野暮ったくも大量に書き込んじゃったよ・・・・。