普通の日 

daily-komagome2007-10-25

 朝、嫁を見送って、いつもと同じ家事を済ます。
 読書の後、駅前まで散歩。橘屋で200円均一で三冊。

 「昆虫好き科学者」の系譜というのがあるが、池田清彦も(養老猛司と同じく)その一人。手塚治虫(手塚は漫画家になって後、ゾウリムシの研究か何かで医学博士号を取ってなかったっけ・・・)を思い出すせいか親しみが持てる。で、何故かこの系譜の「科学者」は、「科学」を「実用」から遠いものとして考える傾向の人が多い気がする。要するに、彼等にあるのは、「自然」を忠実になぞることで「世界」に応接しようという態度であり、その延長線上で、ただ単に自分の周囲に開けている「世界」への好奇心を徹底したいといった素直な希望だけなのだ。その意味では、彼等が、社会的な文脈で「科学」という言葉で語っている場所を、「文学」と置き換えても大きくズレはしない。「世間様は、僕らを必要とは思っていないようだし、実際それほど実用性もないのだけど、実は結構、人生の深い場所で適切なヒントを与えてくれるのが「科学」なんだよ」ってな感じだ。そして、この力みを抜いた控えめな態度が、逆に自分の領域を余裕をもって眺める態度を可能にさせて、網羅的で原理的な「教科書」を書くことをも可能にさせているのだろう。でも、ポパーを参照するまでもなく「科学」って、単に閉じられた系=システムにおいて、「他者性=反証可能性」を排除しない限りで可能な、出来るだけ厳密で汎用的な仮説=解釈の積み上げというただそれだけの話だからね。しかも生物学なんぞ、必ずどこかで、被投性としての「生命の事実性」にぶち当たらざるを得ない。つまり、システムの“HOW(=感性・悟性)”を徹底解明すればするほどに、その「存在」を可能にしているものへの“WHYとWHAT(=理性)”は絶対の不可知性として留まってしまう。そして、両項の絡み合いの中に実践的な科学的認知があるとすれば、それはそれでスリリングなはずだ。中途半端な科学者だけが、いまだに19世紀ばりの「真理」をマッドに掲げているだけ。そう思うと、世界の経験性だけを参照したアッケラカンとした「科学的好奇心」は、「文系」に食傷した時にはいい清涼剤になる。そういえば、ベイトソンが面白いのも、そんなところに原因があるのかもしれない・・・・。
 小林信彦は、本当は『小説世界のロビンソン』を探していたのだが、安いので拾っておく。

 午後、3時半から仕事へ。11時まで 残り勉に付き合う。
 帰宅後、料理研究家のケンタロウに教わった、簡単カレーレシピで遅〜い夕食を作る。たった10分で具材つきカレーが完璧に出来るのだ。今度ケンタロウの料理本を買おう。