オピニオン誌の「態度」。

daily-komagome2007-10-06


 昨日大学へ行ったついでに社会科学系のHゼミ研究室から、三冊の総合誌を持って帰る。『諸君!』(文芸春秋社)、『論座』(朝日新聞社)、『中央公論』(中央公論社)。斜め読み程度でも、三誌の違いは如実だね。まぁ『中央公論』の特集が「古本生活入門」であることは嬉しいが、この際それは個人的楽しみとして横に置いておこう。
 もちろん「左」=『論座』、中道=『中央公論』、右=『諸君!』なんてことは“概念的”には当たり前だが、その執筆陣の違いに目を配ると、その雑誌の「内容」ではなく「態度」の方が、よく見えてくる。はっきり書こう、単純なことだ。「左」から「右」に移行するに連れて、執筆陣の平均年齢が上がっており、かつ、その経歴が多様化しており、カルチャー・アート色が薄れているということである。一言で言えば、『論座』が書生上がり(1970年代後半生まれの東大卒エリート・准教授職に類する研究者)に紙面を提供しており、『諸君!』は、若くても40代の、既に長年の紆余曲折を経てきたと思しき評論家が主体だということ。そして、この「態度」の差に沿って見直せば、そのまま「左翼」と「保守」の“具体的”性格定義に落とし込める。
 つまり、「左翼」とは特に、身近な生活への「愛着」を育て上げる時間や、故の既得権益を十分に持っていない代わりに、普遍主義的理念を唱えるだけの頭脳と馬力だけは持ち合わせている世代によって担われており、したがって、世界主義的(=横文字的)で、構築主義的で、合理主義的な認識(合理の不可能を合理的に説明するシステム論を含む)を示すことが多い。そして、書生上がりの「正義」な人は、まだ十分な社会的傷を身体化していないが故に、未だ他者の善意を信じ、個的理念と集団的利害がどこかで一元的に調整出来るはずだとの希望を将来に抱いているが、しかし裏を返せば、その社会を外から眺め渡し、操作しようとする傲慢さ=冷たさとも無縁とは言い切れない。そして、「過去」よりも「未来」の方が自分たちのものであると考えるその理想主義的態度は、「新世代」である「若者」や「若き感性」、そして「現状」を相対化してくれる「横文字」への嗜好を隠さないが、しかし、その為に「世代論」に拘泥してしまう狭さも持ち合わせる。だからだろうか、「左翼」な人の方が、一時代の若き思想的ヒーローを輩出する確率は高いものの、一方では散文的な時間に洗われてなお、他者に届く言葉がなかなか紡げない。
 一方「保守」は、社会の“やすり”に身を削られ、自分の理念が相対化され、自ら傷つく過程で、悪く言えば人間不信に陥っているが故に、一方で人間の不条理=性悪説からしか政治=暴力=制度は出発しないといったリアルな覚悟を具体的な実践で示そうとする。そして、既に十分「身の程」を認識させられてきた「保守」の人は、故に「断片」でしかない自分を支える何か(全体=歴史・自然・神)に祈るのだが、その祈念が、己の「身の程」を超えて、その「全体」を目の前に描きたいといった願望=ルサンチマンにまで横滑りをすると、構築主義的な未来志向を身に帯び始め、次第に「左翼」とさえ親和的な理念的「右翼」となる危険も持ち合わせる。しかし、基本的には合理主義の限界を知っており、「理論」において「未来」が見渡せないことを肝に銘じる「保守」の人は、「将来の可能性」などというあやふやなものに「信」を置くことが出来ないが故に、それまでに積み上げられてきた日常生活=過去の手触りだけを頼りに“手ぶらで”言葉を紡いでいくしかない。故に、「身の程」に限定された狭さは不可避だが、“自分の外”にある「世代論」や「若者論」に囚われない闊達さは把持できる。
 ただ、それだけのこと。『中央公論』は置いておくとして(古本特集もしてくれたしね)、『論座』にしても『諸君!』にしても、自覚的であれば、どちらもそれなりに楽しむことは出来るが、しかし毎月読むには疲れるな・・・・。

 今夜も“亀の湯”へ。で、頭を洗っていると、後ろから肩を叩かれる。振りむくと、そこにはカワサキが・・・・。さすが、ご近所様