床屋政談 

 現在、纏めに入っている江藤淳論のエスキースでも書いておこうかと思ったが、昨日の国会中継を観て、あまりにも「なんだなぁ〜」と感じてしまったので、その感想でも記しておこう。もちろん新聞も取っていない情報音痴の自分には床屋談議しかできないが。
 冷戦後の自民党民主党の差異は何か。もちろん、小泉構造改革路線(=新自由主義)と、民主党中道左派路線(=制度学派的志向)はその差異がはっきりしていた。が、今じゃ、安倍ちゃんの「再チャレンジ政策」も空しく、参院選の結果を受けて(と見せかけて)福田康夫の「福祉国家?復活」路線への転換に舵を切りかけている自民党は、その方向性だけは民主党の主張と重なってきているようにも見える。もちろん、戦略に於いて、その同一性よりは差異を主張せねばならない民主党の「細かい攻撃」はある。が、しかし、五十五年体制下において、共産党社会党という「自由主義民主社会」といった「最低条件を」クリアできない野党を向こうに回して、その「最低条件」だけを共有した人間で共闘する他はなかった自民党という雑種政党(自由党民主党)は、その内側に多数の政策的差異=派閥(農民社会主義志向と自由主義経済志向、対米従属志向と反米自立志向、官僚開発独裁型と党人政策型etc・・・)を抱えるほかなかったわけだが、その派閥が党内政党の役割を果たす限りで、派閥の均衡が変われば、政権交代と同じくらいの政策転換は出来たわけである。で、今度の福田康夫への権力移行も、基本的にそれと同じことだったと見なせるのなら、この際、果たして民主党自民党の大きな差異はあるのだろうかという疑念が頭をよぎるのである。だから民主党の「攻撃のための攻撃」など、与野党逆転すれば、それをそのまま自民党が転用できるような子供らしい言い草にしかなってない。要するに、「いつやるのよ、何時何分何秒ですか?具体的方法は?言ってください。言えないってことは、実はテメェー、嘘つく気だな。」っていう感じ。あ〜、小学生の頃、よく嫌がらせであったよな・・・・。ってことは、立場が変われば自民党も簡単に出来そう。
 とすると、しかし、奇妙な実感が湧いてきて、攻撃の矢面に立ちながら、限られた条件の中で具体的な政局運営を強いられている自民党が、実践的に耐え続ける「治者=生産者」で、譲歩する条件も示さずに言いたい放題な民主党が単なる「クレーマー=消費者」に見えてきてしまうのだ。しかも、政策の「是々非々」を唱えていた前原前民主党代表とは異なり、いつのまにか靖国参拝賛成を覆し、新自由主義政策のほぼ全てを抛棄し、今じゃ完全に社会民主主義者の顔で、恥さらしなほどの転向ぶりを果たした小沢のいっ君は、その経歴から言って己の「政策」の全てを「政略」に還元しかねない奴だと判断させてしまう。となれば、「何でも反対」民主党の「クレーマー=消費者」イメージは、さらに拍車が掛かって、その都度の功利主義=大衆的ご都合主義を超えないものと見えてくる。
 これまでは、世間の中で「治者=生産者」の立ち位置を強いられてきた「男性」が自民党を支持し、「クレーマー=消費者」の立場に身を置いた「学生・女性」が野党を支持するという構図が一般的だったが、これからは果たしてどうか。つまり、「女性進出」がほぼ一般化し、女性自身が「治者」の立場を強いられている現在、そう簡単に「生産者=権力」VS「消費者=正義」の二項対立イメージが成立しないと言うことだ。ただ、一方で「友達パパ」や「友達ママ」といった戦後民主主義的平等主義の瀰漫において、教育現場での「モンスター・ピアレント」が話題になり、「一億総消費者化=クレーマー化」が騒がれている現在でもある。果たして、これが民主党に「吉」と出るか、「凶」と出るか・・・・。
 要するに、イデオロギーでの政党選択がなくなった現在、結局、政党選択の基準は、その「政党の型」でしかないということだ。我々は「選挙公約=マニフェスト」の内容などを本気にはしない。ただ、その「公約」と、その「公約」を掲げる人間の顔を見比べて、候補者に国民の権利を「信託」するつもりで投票しているに過ぎない。だから「公約違反」は何らの法律にもひっかからない。実際、誰があの“村山社会党政権”の誕生を、そしてあの大胆すぎる「公約違反」を予想できたか。しかし、未来のことが誰にも分からない以上当たり前に話だ。それを「騙された」の、「嘘ついた」のピーピー言う奴は、しかし「騙された自分」だけは反省しようとはしない。だから、また騙されるのがオチだ。その意味では、政治への「信」は、いつでも操作できてしまう「政策内容」からは生まれず、「政策」を操作する態度(=形式・人間)の一貫性におよって辛うじて担保されていることだけは肝に銘じておきたい。要するに、「人間の生き方=行き方=型」だけなのよ、信頼できるのは、結局。