常識について

 つい先日、久が原の実家に帰った際、オヤジの仕事関係でもらったという図書券5枚ほどを譲り受ける。今日は、その実力を発揮。
 さすがに、家で延々と鬱々とすうるのはうんざりなので、自転車に乗って、駒込巣鴨界隈を散歩。その際、巣鴨の文誠堂で内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)が文庫になっていることに気が付く。ちょうど図書券一枚分+40円だったので、まぁ、散歩のみやげに買って帰ることに。
 帰宅後、仕事まで延々論文用の読書。江藤淳の『文学と私・戦後と私』(この名著も最近、福田和也の解説付きで新潮文庫から復刊されましたが・・・)を再読し、坪内や福田和也高澤秀次の江藤論を再チェック。そして、その間に、内田樹の本をぱらぱらと読みすすめる。内田の本はいたって「常識的」な論だから、何を読んでも「そう、そう、その通り」という感じでパ〜と読めるのである。もちろん、時には「いや、言い方が少し違うけど」と思うときもあるけど、まぁこれくらいの違いは誤差程度。基本は、ほぼ同じ。ただ、逆に不思議なのは、こんな「常識」が、何故今頃になって「目から鱗です」などという評価(もちろん反発もあるだろうが)と共に、受けるのかということだ。
 内田がここまで受けるってのは、やっぱり「常識」が衰退しているのかな、と思わせる。ただ、ここでいう「常識」とは、“目の前に対象化できる知識”ではなく、ただ、“その人になって考えるという想像力の働き=機能”だということだ。だから、極小的には生活を同じくする嫁と自分との間にある「常識」の働きと、極大的には全く接点のないエスキモーの狩人と自分との間にある「常識」の働きとは、自ずと差異が出てくる。生活態度の差異が極小なら、その想像力は微妙な心理的必然の襞まで辿れるかもしれない。しかし、差異が極大化すれば、ただ「死ぬのは嫌なはずだ」とか「寒いのは嫌なはずだ」とか、人間誰もが持っていると仮定できる生理的必然からしか他者への想像は働かせられない。よって、前者はより“個人的”な対応が可能だが、後者には匿名的で抽象的な対応しかできなくなる。もちろん、この「常識」の“働き”自体は実体化できないから、その都度の立ち止まり、状況をマッピングし、目の前に他者の必然の糸を辿ることでしか現れない。だから、「常識的にはそんな行動はしないだろ」っていうのは、最終的にはそれを言う個人の想像力にしか依拠しないのである。
 ただ、だからといって、それがただ単なる独断かというと、もちろん“他者への想像力”という契機を孕んでいる限り、個人の内部(における独断)では完結しない。だから、「常識」を辿るその思考には、「言語」や「習慣」や「歴史」といった三人称的媒介項が必ず存在する。それらを介在させない二人称的なコミュニケーション(自然状態=ホッブス)は、互いの果てしなき「欲望」だけが加速されるので、最終的に他者への手がかりを喪ってしまう。だから、我々は三人称的媒介=限定を経て、初めて“他者への想像力(=常識)”を手にすることができるのである。成果主義を振り回す企業、自立を気どる個人主義者、依存を拒絶するフェミニスト、個性的なアーチスト、自分探しをしている若者に「常識」は望めない。だが、「常識」なき人間が、単に不幸な孤独へと突き進むだけだということも「常識」的にいって妥当だと思うけどね。
 内田が主張していることも基本的に、ただそれだけのこと。でもって、これ自体も「常識」に属する筈だと思うのだが、果たして如何。

 夜は、仕事。今日は残勉=残業はなし。