休日

daily-komagome2007-09-23

 昼すぎ、註釈付けも終わったので、久しぶりに何も考えずに家を出る。足は自然と谷根千方面へ。まずは、古書ほうろうへ。が、めぼしいものが見付からず、そのまま向かいにあるブックオフへ。で二冊。

 次に本郷図書館へ。この図書館は一番好きな地域図書館だが、さすが鴎外記念館の別館なだけあって、文学全集と研究書の充実が半端じゃない。少なくとも、下手な大学図書館よりいい。が、使いにくいことに何故か保田與重郎全集だけはないんだよな・・・。そこで、『文藝春秋』の必要部分をコピー。
 その後、往来堂で新刊を一冊。

 で、ブーザンゴ・カフェでカワサキと待ち合わせ。そこでも二冊

 一度カワサキと別れて帰宅してから、夜までは読書。セリーヌ『夜の果てへの旅』の改訳は、文庫版の上巻180Pまでは終わっていたのだが、その先に手を附ける前に、生田耕作が亡くなったらしい。そこで、旧訳版を引っ張り出して何処がどう改訳されているのかを出だしの処だけ簡単に調べたところ、結構興味深いことに気が付いた。
 旧訳版の「民族」表記が、ほとんど全て「国家」や「国民」に直されている。確かに、後のファシズム・コラボ作家であるセリーヌ=主人公のバルダミュが「フランス民族」を罵倒するよりは、近代的「フランス国家」や「フランス国民」を罵倒する方がしっくり来る。もちろん、アーレントの様に「民族」自体も近代の発明品というのは易いが、しかし、それは飽くまでも「近代」=「国民」への反動として発明されていることを考えれば、やはりセリーヌに於いて罵倒されるべきは「近代=国民=国家」でなければならないのだろう。というか、それが生田耕作の読みでもあるということだけど。でもこの際、全部再読してみようかな・・・。 

 後、サリンジャーの短編「バナナフィッシュにうってつけの日」(1953)を高校時代以来ぶりに読む。これって、『短編小説のアメリカ52講』の青山南によれば、1950年代のアメリカ短編小説アンドロジーを編もうとした時には、編者が必ず巻頭に持ってこさせたい作品らしいのだけど、どんな代表的なアメリカ文学のアンソロジーにも入っていない。というのも、例の隠遁以降、サリンジャーがアンソロジーへの編纂を許さないらしい。しかし、それを聞けば、俄然読み方を変えて再読したくなるもの。つまり、サリンジャーの「バナナフィッシュ〜」ではなく、アメリカ50年代を代表する短編「バナナフィッシュ〜」として読み返したくなるのだ。
 アメリカの50年代と言えば、マッカーシーのアカ狩りが猖獗を極めるとの同時に、ハリウッドが決定的に変質したあの時代だ。ホークス、フォードのアメリカ映画の古典主義時代から、シーゲル、アルドリッチ、フライシャーのアメリカ映画の近代化(=プログラムピクチャー)時代への過渡期だ。おそらく、それはサリンジャーの短編にも刻印されているはずだろう。ちなみに、一言付け足せせば、アメリカ文学の総体がやっと“後ろ向き”になり始め、「現実謳歌」を押し進めていたあのヘミングウェイが、『老人と海』において人生における不可能性を哀切に語り始めたのも、「バナナフィッシュ〜」の一年前の1952年だったのである。換言すれば、新大陸アメリカが、内面を抱えた“文学”を欲し出した時代が、1950年代と言うことができるのかな・・・。

 夜は、カワサキと天殿湯で一ッ風呂浴びた後、ホウ・シャオシェン監督の『珈琲時光』(2003年/松竹/108min)を見直す。これで3回目。出てくる場所の全てに見覚えがあって、なおその場所への愛着がある映画というのは、この一本しかない。
 ただ、今回初めて、劇中の一青窈が案外ズルい女だと感じた。4年前にはそうは見なかったな・・・。