久しぶりの神保町と小山清 

daily-komagome2007-09-15


 今日は、久しぶりに自転車で神保町に向かう。で、これまた久しぶりに、神田古書会館を覗く。今日は趣味展。これといってめぼしいものはなかったが、400円と激安だったので『群像・日本の作家』シリーズを二冊拾う。これって普通、専門書店なら一冊三〇〇〇円近くはする代物。

 実はわたくし、小学館の「日本の作家」シリーズのファン。有精堂の「日本文学研究資料叢書」や「日本の近代文学」シリーズ、角川の「近代文学鑑賞講座」シリーズや、学燈社の「別冊國文學・必携」シリーズなどなど類書は数多いが、同時代評から代表的先行研究、思い出話から作家の代表作までの全部をコンパクトに要領よく纏めてあってバランスが取れている研究叢書は、この小学館の「群像・日本の作家」シリーズが一番だと思っている。入門初心者向け叢書というのは、結構なマニアまで案外使いやすいものなのです。『中上健次』『小林秀雄』『江藤淳』『太宰治』『三島由紀夫』などの巻には大変お世話になりました。

 で、古書モールまで足を延ばして一冊。

 これは、有島の「狩太共生農業」や、賢治の「羅須地人協会」、そして実篤の「新しき村」などの文学者によるユートピア実践を、現地の人のインタビュー、資料、作品などを突き合わせて書き上げたという労作。実際、彼等の行動は知っていても、その具体的な内実となると、作品だけを扱った普通の文芸評論では知ることがでない。
 共同体的=外在的価値基準の崩れた「近代」で、予めその不可能を約束されていた社会と個人の交点を探し求める矛盾的実践。マルクス主義プロレタリア文学以前の社会活動の内実とその不可能を知る上では、物凄く興味深い一冊かも。

 帰宅してからは、昨晩“亀の湯”帰りにカワサキから安く譲ってもらった小山清『日日の麺麭・風貌』(講談社文芸文庫)を読む。
 素敵な一節があったので引用する。

僕はひとが思うほどには、また自分からひとに話すほどには、薪水の労を億劫にはしていない。そんなにいやでもない。僕の一日など大抵無為のうちに暮れてしまうのだが、「無為」でないのは睡眠という営みをべつにすれば、その時間だけである。そして僕にはそれに費される時間の長さが有難いのだ。僕はそれをひどくスローモーションにやるわけなのだから。たとえば母親から慰められずに置き去りにされた子供が独りで玩具を弄んでいるうちにいつか涙が乾いてくるように、米を磨いだり菜を刻んだりしていると、僕の気持ちもようやく紛れてくる。僕はうどんが煮える間を、米が炊ける間を大抵いつも詩集を繙く。小説なんかよりはこの方が勝手だから。・・・・

 といった感じ。人がどうやって規矩された生活に支えられているのかが分かる一節。“〜ためにする雑用”ではなく、それ自体が目的となりうる生活。そう、生活のリズム=味わいだけが、ともすればアナーキーに崩れ逝く肉体的現実を今、ここで支えているのである。 

 夜は、書き終わった論文の註釈でも付けようかな・・・・。