投稿論文の失敗

 朝、寝起きに何気なく『サブカルチャー神話解体』を手に取ったら、ついつい少女漫画論の部分を全て読み返してしまった。最近、「右翼」を語るようになった宮台の手になる「増補文庫版へのあとがき」にはシステム論的「観察」(ルーマン)の「泥沼の再帰性」(換言すれば相対主義の泥沼=不透明性)についての痛々しい反省の態度が垣間見られるが、1993年の時点に出版された本書は、「システム論的俯瞰=全知」の不可能性への懐疑など微塵もなく、ただただ限りなく透明でスムーズな叙述のみが紙面を埋め尽くしている。宮台の切り口を前提公理にすれば、その叙述にはそれなりの説得力が備わるが、それも結局、観察者の視点の恣意性を問わない限りのものでしかない。つまり宮台は、どこから、その観察者の視点の優位性=説得力の根拠を備給しているのかを問わず(または、問えず)、その自己言及の「盲点」への問いを回避している限りで、その論の運びは、度し難く強迫的な宮台のエリート意識(選民意識=自分だけが把握している統計的結果の優越性・自分だけが遂行したフィールドワークの体験的優位性)だけを頼りに、あの傲慢な叙述で埋め尽くされるだけだ。否、確信犯的にその観察者の「盲点」を己の「実存」と呼び換える詐術によって宮台は、単なる手前の「個人的自我」を、権力的な「集団的自我」の中へと潜り込ませることに成功したのだろう。その二重性(システム論的合理性+宮台真司の実存的説得力)に転移=魅入られた宮台ファンが、昔のエリート文学青年に類似しているのは決して偶然ではない。「全ては想定内」と嘯く「合理的」で、頭でっかちな傲慢(=おまえはホリエモンか!)と、故の脆弱な自意識過剰の二重性。それは、かつては経験不足な青白い顔を晒しながら、世界大の理念と解釈だけは一人前に語ってしまうといった文学青年特有の徴候ではなかったのか・・・。東浩紀にしても、鈴木謙介にしても、最近この手の輩が多すぎる。
 などと思いつつ、台風が近づいている最中、それでも神保町の神田古書会館へ。今日は青空展が目当て。そこで文庫を四冊(全て100円〜200円)。

新刊書店で一冊。

  • 小林信彦『面白い小説をみつけるために』(『小説世界のロビンソン』改題、知恵の森文庫)

 帰宅後、郵便受けを開けると、そこには投稿論文の審査結果が。で、開けてみると、「(1)論文が投稿規定の枚数をオーバーしているため。(2)新しい知見がうちだせていないため」という二点の理由で審査を落とされていることを知る。(1)の理由については、再度確かめる必要があるが(でも、規定には従ったつもりなんだけど・・・・)、(2)の理由は、何故筆者より、審判者の方が研究対象についての先行論文等の研究について詳しいのか腑に落ちない。新しい知見も何も、書いてるこっちの方が全先行論文(しかもマイナーな対象だ)を検索しているのだから詳しいよ、と言いたいところだが、まぁ、今更もぞもぞ文句を言っても仕方がない。負け犬の遠吠えだ。
 しかし、これで、ついに本当に追いつめられましたね。後一本温存している既述の論文はあるものの、いよいよ卒業も危ういな・・・・。でも、さすがに自分が「研究」に向いていないことは悟らざるを得ない。この歳まで来ると、変えたくても変えられない自分の資質、自分の自由にならない自分の嗜好が身に染みる。「これからも、間違っても〈研究〉という品のないことだけは、すまいと思っている」(『美の死』)と書く久世光彦の「批評」をこの上なく貴重なものだと見なし、「太宰治」を崇拝する「研究者」というグロテスクに耐えられない自分の感性はもうどうしようもない。自分の感性が折り合えるギリギリの処までは譲るが、それで後一年踏ん張ってダメだったらその時は仕方がないな・・・。
 元々「研究者」になりたくて大学院に入ったわけではないので、まぁ初心に帰ったと言えば言えるか。明日は誕生日だし、いい区切りだ。次は福田恒存に忠実に「評論」を書こうと思う。
 夜は、亀の湯へ。いい季節になった。