嫌な話

 昨日は、嫌な話を(後輩と先輩から)連続して聞いてぐったり疲れる。全部、ズルズルベッタリ大学・学会関係のしがらみ・陰険いじめ話。いやだねぇ〜、大学ってところは不潔で。こういうのって聞くだけでウンザリして、こっちの生気まで奪われる。って言っても、自分だけが身ぎれいなのかかと言われたら、もちろんそんなことはない。一応、一人では生きられないと自覚している「大人」なので、他者へのそれなりの媚態は示すよう努力はしている。ただし、こっちにも意地はあるんだから、他者に無条件に譲ってばかりもいられない。そこで筋を通せるか通せないかが、そいつの人生(人格の一貫性)の岐路なんだろうな。
 これまでの少な〜い経験だけで言うと、「学会・大学=アカデミズム」とは、嫉妬と政治のアゴーン(闘技場)だね。なぜなら、自分のやりたい研究に没頭して、それに自分の人生の充実を賭けている人間などほとんどいないからだ。アカデミックな雰囲気に憧れてだとか、学部時に優等生で少し頭が使えたからとか、指導教授から覚えめでたかったというだけで「研究者」の道に入った人間のほとんどは、だから「政治」に走りる以外に身元証明ができなくなる。自己喪失も甚だしい「研究者」は、その「政治」力で勝ち取った他者承認を、そのまま自己承認・身元証明にするしかないという悲しい宿命を帯びているわけ。実際、文系アカデミズムは、「政治=他者承認」以外に何かしらの明確な評価基準などないに等しい。ある人間は資料発表に近いことをし、ある人間はテクスト論に寄りかかり、ある人間はカルスタ図式に寄りかかっているだけ、しかも、国立大教授が学会の流行に合わせて国家=帝国批判するなんていうギャクも日常茶飯事でしょう。これらの研究の総体を俯瞰しながら、公正に評価を下せる人間など原理的に存在しない。にもかかわらず、表面だけは「客観性」を装わなければならないと無理をするから、その裏から(悪い意味での)「政治」が忍び込む。それでどうにか辻褄を合わせようってことになる。要するに「いき」な奴がいないんだよ。
 それならそれで、己の「必要」(坂口安吾)だけに根ざした「評論」世界の方が、どれだけ風通しがいいかしれない。
 本当は吉本隆明について書こうとおもっていたんだけど、しかたないね、昨日が昨日だったんだから。