古本市の日

daily-komagome2007-10-14

 昼頃、まずは、自転車に乗って谷根千界隈に散らばっている一箱古本市へ。カワサキの土地勘と地図を頼りに一応五カ所全てを回る。それにしても、売り手と書い手の距離が近いんだね。だって、古本を詰めた一箱の後ろには、すぐに店主が控えて居るんだもの。いやでも顔を合わしてしまう。下手すりゃ声をかけられてしまう。確かにそのメリットはあるにはある。古本を手にとって眺め回し、もう一度箱に戻そうとすると、「安くしますよ!」とか「まけますよ!」とかは言ってくれる。で、実際、半額以上に負けてもらって買えた本がほとんど。まぁ、この距離も五カ所回っていくうちにだんだん馴れてはくるし、「この近さが良い!」という人もいるのんだろうけど・・・・・・。
 しかしやりすぎると、あの「古本」独特な距離感が失われていく感じもする。ふらっと立ち寄った古本屋で、古本の棚と、そこに書かれた値段だけを介して無言のうちに店主の価値観とやりとりするあの感じね。要するに、この本で、この値段なら買ってもいいなと言う“折り合い”と、負けてくれるから買うかという“馴れ合い”は全く違うと言うことだ。「媚態」だけ示して、目の前の他者と一体化してしまえば、そりゃ、もう流されていることと見分けが付かないんだから、野暮になっちゃう。飽くまでも他人は他人、俺は俺、この「意地」が醸す距離感があればこそ、“折れ合えた”時の他人への無言の信頼も芽生えてくるってもの。でもって自分の「意地」が通らなきゃ仕方がないのよ。目の前の古本を「諦め」るだけっていう潔さの中に、古本というメディアの風通しの良さがあるんじゃないか。ということで、古本は「あかぬけた(諦念)・張りのある(意地)・色っぽさ(媚態)」という、あの「いきの構造」(九鬼周造)とピッタリ重なってしまう(?)のです。そういえば荷風散人の『墨東奇譚』は、その冒頭を古本屋から描き始めていたっけな・・・・。
 で、以下が不忍・一箱古本市で拾った代物。

 この中で、特筆すべきは江藤淳『自由と禁忌』と、千円の中古カメラだろうな。特に河出文庫江藤淳『自由と禁忌』は、今の今まで図書館でしか見たことがなかった。ハードカバーでは持っているものの、「解説」が、イグッチによるものなので持っていて損はないだろう。この珍しさで200円だったしね。
 続いてその足のまま、今度は芸術劇場前の池袋西口古本祭りへ足を運ぶ。そこで二冊。

 夜は、“亀の湯”で汗を流す。