新刊ラッシュ 

daily-komagome2007-10-13

 今週はレジュメ制作で忙しく、日記を書く時間もとれなかったが、それも昨日の発表で終わる。発表の方は、まぁ、イグッチも面白がっていたし、良しとしよう。後は、またこのレジュメを論文に起こすだけだ。

 でも、世間は新刊文庫ラッシュ!仕方がないので、ここぞとばかりに図書券を駆使して(ほとんど“ちくま”を)買いまくる。

で、嫁の買った新刊

 加藤典洋敗戦後論』は、当時のハードカバーを当時の足りない頭で読んではいたが、今回は文庫版に付いた内田樹の解説目当てで買ってみる。でもって、内田の解説が、加藤の本文より良い、って言っちゃ加藤が気の毒だが、それが偽らざる印象だから仕方がない。特にあの東大三バカトリオの中の一人として名高い高橋哲哉への批評は、単なるバカにはもったいないくらい丁寧だ。ただ、個人的には江藤淳の「保守主義」と福田恒存の「保守的態度」との、微細だが、その決定的な差異を論じたばかりなので、この際、加藤の「戦後論」も再度熟読吟味するの事も必要かと考える。当時は、『批評空間』派から何かと揶揄されることの多かった加藤典洋だが、しかし、10年後の今こそ、外在的基準=イデオロギーに囚われない読みができるのではなかろうか・・・・。
 ただ、今まで読んだ感想だと、加藤典洋の論は、やはりどこかで江藤淳的な姿勢を引きずっている。つまり、行政レベルの目的限定的なエゴの調整機関(=国家・公)の問題と、自己同一性という個人を支える良心の問題(=私情・私)とを二重化し、またはどこかで結べるものと考えている節がある。筋を通そうとする姿勢は評価できるが、己の筋を通した結果、それが飽くまで“己の筋”である限りで、滅ぶなら、滅んでもいいという諦念(=外部への開け)をどこかで持ち合わせない限り、それは「公」を偽装した自己絶対化とほとんど変わらなくなる。その辺を、加藤はどう取り結ぶのか。まぁ、もう少し付き合ってみよう。
 山本七平の名著や、小谷野敦の本にも少しの感想を備忘しておきたかったが、詳しく論じている暇はない。なぜなら今から、不忍ブックストリート一箱古本市にワサキと出掛けるのだ!本当は、学会の定例会に誘われていたのだが、辛気くさい学会など行ってられっかっつーの。数少ない学会経験から割り出した結論は、文学の「ぶ」の字も分かんねぇ「研究者」の発表など聞くだけでも時間の無駄だということだった・・・・。